2003年1月1日(水) ぼくの初夢
あけましておめでとうございます。
爆竹のはぜるけたたましい音と火薬の匂いが充満する中華街でぼくとユミは新年を迎えました。
関帝廟の横の校庭で龍の踊りと獅子舞を見ました。
校庭いっぱいの見物客で、最初の龍の踊りはほとんど見られなかったのですが、カウントダウンの後の獅子舞は、2メートルほどの高さの杭の上を飛び跳ねるのでよく見えました。
この獅子舞がすごかった。前足になる人は顔の表情も作り、後ろ足になる人は獅子が立ち上がるとき、前足の人を肩の上に乗せてしまうのです。てっぺんが20センチ四方しかない杭の上で自然に踊りながらそれをやるのだからすごい。杭は何本もあって高さもまちまちなのに、まるで塀の上のように自由に振舞うのです。
一度だけ失敗して下に落ちて、また同じ場所からやり直しました。
そのとき着ぐるみを着なおしたので、演じているのがまだ若い二人の男性だということがわかりました。
そのあとは一度の失敗もありませんでした。
ぼくはひどく興奮してしまって、初夢はその獅子舞でした。全く見たままをまた夢で見たのです。
去年の暮れに黄色いねずみの出てくる怖い夢を見たのですが、そのねずみを獅子が食ってしまったようです。年が明けたらもうどこにもいなくなっていました。
友部正人
1月4日(土) 浅間温泉
息子の一穂が去年の11月に真由美さんという女性と結婚をしたので、そのお祝いもかねて、松本の浅間温泉に4人で行ってきました。
お正月なのにすいていて、とても静かでした。旅館の女将さんが部屋まで食事を運んでくれて、だんなさんが布団を敷いたりたたんだりしてくれました。普段はもっと大勢の人が働いているのでしょう。
蔵づくり風のきれいな温泉旅館でした。
浅間温泉に住んでいる中川かっぺいさん夫妻が夜遅くたずねてきてくれました。彼はぼくたちの古い友達で、松本でたつのこ書店という児童書専門店をやっています。最近はそば打ちも本業にしつつあるようです。
せっかく松本に来たのに、一穂の妻の真由美さんはそばアレルギー。
ぼくもユミもそばが大好きなのでがっかりしたのですが、でも聞くと、そばアレルギーの人は多いのだそうです。
翌日はみんな松本観光にはりきっていたのですが、寒さのせいで真由美さんが体調を悪くして、ぼくたちの友人で精神科のお医者さんをしているふあの家でごろごろとすごすことにしました。ふあの家にあったいろんなお酒を飲みながら。
それもまた楽しかった。なにしろお正月ですから、そんな風に大勢ですごすのはいいことです。
行きも帰りも高速バスの予定だったのですが、渋滞で3時間は遅れるという話だったので、帰りはJRのあずさで帰りました。夕方から降り始めた雪のせいもあって、その日のバスは最高3時間40分も遅れて新宿に着いたのだそうです。
友部正人
1月7日 ウィルコ
いよいよあと5日で鎌倉のコンサートです。芸術館の青澤くんと電話で打ち合わせをしていて、今日は外へ出られませんでした。
暗くなってから買い物に出ると、空の三日月、かさをかぶっています。
明日は雨かな。
家にいるとCDを聞きます。ビッグ・ビル・ブルーンジー、マイルス・デイビス、
アニ・デフランコ、ウィルコ。そのウィルコがすばらしくよく思えた一日でした。
誰かに話したくて日記を書こうと思いました。このあいだ松本で精神科医のふあと、お酒を飲みながらいろんな音楽の話をしました。
ぼくの歌「ふあ先生」そのままですね。そのときふあにいっぱいいろんな音楽の自慢をされちゃって。今ならぼくは「ウィルコの新しいのいいよ」って言えるのに。
家のすぐ近所に横浜美術館があります。1月13日までヴィフレド・ラムというアーティストの展覧会をやっていて、ぼくは昨日見に行ったけどおもしろかった。
12年ぐらい前にパリのポンピドー・センターでたくさんの現代美術に触れ、人間が持っている無限に近い表現力に感動したのですが、昨日はそのときの気持ちをまた思い出しました。こんなにすぐ近くに美術館があるのだから、もっと毎日のように行くべきだな、と思いました。
横浜美術館には常設の写真展示室があって、そこにいつも展示されている木村伊兵衛の北国の子供たちを撮った写真がおかしかった。子供たちの寒そうな顔、心の底からおかしいと思ってるぼくの瞬間を、木村伊兵衛にその写真の奥から写されたような気がしました。
友部正人
1月8日(水) 梅の花
横浜にも根岸森林公園の横にアメリカ軍基地があるのですが、前はいっぱい車が路上駐車してあった基地への道路の片側が、いつからかすっかり車が排除されてきれいになっているのです。
これは何かのときに避難路に障害物を置かないというアメリカ人のやり方なのです。基地の周りには真新しいフェンスが張り巡らされ、内部への通路は閉鎖されています。完全に自分たちだけの守りの体制に入っています。たぶんあの人たちは日本ではいないも同然の人たちです。アメリカのことしか考えていないのですから。
そんな無礼な人たちのいる基地の横の公園で、もう梅の花が咲きはじめていました。まだ1、2本ですが、きっともう地面の下は暖かくなってきているのですよ。
友部正人
1月13日(月) おみやげの山
コンサートの翌日って、あんまりやることもなくって、ぶらりと横浜駅に行ってみたら、着物を着たおねえさんたちがたくさんいて、今日は成人の日だということを思い出しました。
それにしても暖かい月曜日でした。
一年以上も前から話のあった鎌倉芸術館でのぼくの30周年記念コンサートが昨日ありました。30年30曲、という考えは、鎌倉芸術館の青澤くんの中にはじめからあったものです。その30曲を元に「30年詩集」を作り、聞きにきてくれたお客さんたちに配布するということも。
準備にかかった時間は長かったけど、はじめにあった考えは見事に全部実現されたことになります。基本的にはぼくが一人で歌うということも。
とはいっても、ロケット・マツをはじめとして、たくさんのぼくの古くからの友人たちが演奏をしてくれました。知久寿焼くん、水谷紹くん、武川雅寛くん、横沢龍太郎くん、関島岳郎くん、安藤健二郎くんたちです。また、谷川俊太郎さんと小室等さんがゲストとして、ステージでぼくの詩を朗読してくれたり、ぼくの歌を歌ってくれたりしました。とてもしあわせでした。
演奏中何度も、どうしてこんなに素敵なことになったんだろう、と考えました。
一参加者としてぼくもあの場にいられたのは、コンサートの母体となった人たちが明確な発想を持っていたからだと思いました。友部正人という人が作った30曲を中心にしたコンサートだということ。だからぼくもあの場では一人の演奏者だったのです。
すでにいろんな人たちからの感想がこのホームページにも寄せられてきています。通常のコンサートの2時間というわくを超えた瞬間から、あのコンサートは特別な領域に入ったと思います。遠くから来た人もその距離を忘れ、ぼくにおみやげとして残していきました。今ぼくとユミのいるこの場所は、まさにそんな形のないおみやげの山に満ちています。
友部正人
1月15日(水) 停泊中
横浜の大桟橋にはよく大型客船が泊まっています。たいていは一晩か二晩でまた出て行ってしまうのですが、ぼくはどんな船が来ているか見るのが好きです。何度も来るので名前を覚えてしまっている船も何隻かあります。不思議にその船に乗って遠い外国に行きたいとはもう思わないのは、ぼくが年をとったからでしょうか。
もしもぼくが子供だったら、大人になったら船員になりたいと思ったでしょうか。船員という言葉にはまだひかれるものがあって、船員コープ、船員会館などという看板を見るとそばまで行ってみたくなりますが。
1月12日の鎌倉芸術館のコンサートを終えて、ぼくは今、出航する予定のない客船のようです。ただ、次のコンサートの予定も近づいているので、新しいお客さんを乗せて出航する準備も整えなくてはなりません。もうすぐ大阪と京都で、このあいだゲストで出てくれた谷川俊太郎さんと二人のライブがあります。去年の敦賀のときのように、交代で詩を読んだり歌を歌ったりするコンサートになると思います。
谷川さんは「Live no media 2002」にも参加してくれましたから、その発売記念にもなります。関西の方、ぜひ来てください。
それから近江八幡と豊橋では、三宅伸治さんとのジョイント・ライブがあります。三宅くんも「Live no media 2002」に参加してくれました。
ぼくは今年はブルースにも挑戦してみようかと思っています。いかにもというブルースはぼくの柄ではありませんが、ほんのちょっとそんな香りのする偽者っぽいブルース。今度の三宅君とのライブがいい刺激になればと思っています。
というわけで、出航の時間がきたようです。しばらくはまだこのあたりを周遊して、すぐに戻ってくるつもりですが。
友部正人
1月16日(木) どうもありがとう。
鎌倉芸術館から1月12日のアンケートのコピーが送られてきて、ユミと楽しく見ました。今日最初にしたことはこのことでした。
千葉や埼玉から2時間以上かけてきた人や、新幹線で来て夜行列車で帰った人、飛行機で来た人、みんなとても遠くから来てくれたんですね。とてもうれしかった。
ぼくが歌いに行くのもいいけど、来てもらうのもいいものです。
年齢は30代、40代が多かったけど、20代の人もだいぶいました。
60歳の人もいた。でも20歳以下はなかったかな。
聞き始めた年代で一番多かったのは1980年代、だから二部が良かったという人も多かった。でもそれはバンドがよかったからかもしれません。
アンケートで一番心に残った感想は、「宝物の箱をもらったみたい。
新しい歌は上の方、古い歌は下の方。」というのでした。もしかしたらちがっているかもしれませんが。
終了予定時刻を知っておきたかった、という人がいました。お腹がすいたのだそうです。ロビーで何か食べるものを買えるようにすればよかったですね。サンドイッチとかおにぎりとか。お祝いだから、休憩だけシャンペンが飲める、というのもよかったかもしれない。
トイレがよけい大変だったかな?
ものすごい分量のアンケートで感激しました。どうもありがとう。
友部正人
1月19日 (日)サイン会
ぼくの本は軽い。サイン会をしに高円寺の文庫センターへ行ってきました。サインをしながらぼくの詩集を持ったときの印象です。
2冊ともとても軽い。
サインをして手渡すとき読む人の表情が見られます。
ぶすっとした人、照れる人、ぼくの本をこれから読んでくれる人たちの顔をぼくは見られます。サイン会をやってよかったなと思っています。
過去に一回だけサイン会をやったことがあります。スズキコージさんと絵本「絵の中のどろぼう」を出したときです。新宿の紀伊国屋書店でした。
ざわついた場所だったせいか、もうそのときのことは覚えてはいません。
どんな人が本を手にして帰ったかも。
高円寺文庫センターは高円寺の北口にある本屋さんです。みかけは標準的な町の本屋さんという感じ。だけど中身はぎゅっとつまっています。
何かおもしろそうな本が絶対にあるにちがいないと期待させる感じ。
サインなんかやめて早く本棚を見たいという誘惑と戦いながら、今日は30人ぐらいの人にサインをしました。前にここでやったキヨシローさんやチャボさんに比べるとダントツに少ないそうです。それでも出版元の思潮社の人たちはよろこんでくれました。
コンサートだと来てくれた人の顔が見えないのが当たり前だけど、今日は来てくれた人の顔が見られてそれがうれしかった。
友部正人
1月21日(火)ぼくのいない町
ロケット・マツの「ロックンロール」のアレンジがよかったのでオリジナルのカンテグランデの中の「ロックンロール」を聞きなおしてみたら、そんなにちがいはなかった。マツはオリジナルを元にアレンジしたのだから、そんなにちがいはないのはあたりまえのことでした。
あまり目立たないアルバムだったカンテグランデですが、聞きなおしてみて、今一番安心して聞けるアルバムかもしれないと思いました。安心というのは変な言い方だけど、ぼくの一番新しい休みの日にとても近い感じがするということです。ぼくにとって今的なのです。カンテグランデはポカラの後の休日のアルバムだったのかもしれません。
先日、東雄一朗くんの持っているラジオ番組に出演したとき、最近ぼくがニューヨークで作っている歌は、休日の感覚で作られていることに気づきました。それはぼくがニューヨークにいるときの感じだからです。のほほんとした感じは、カンテグランデのころととてもよく似ているような気がします。朝起きてから、今日は何をしようかな、って考えるような。何も予定がないから歌でも作ろうかな、と。
今のところニューヨークは、ずっと「ぼくのいない町」でい続けてくれています。
友部正人
1月30日(木) ジョイントコンサートあれこれ
あっというまに過ぎた1月でした。行きたかった旅行にも行かずに、休息とライブの日々でした。30周年記念コンサート以降のライブを紹介したいと思います。
1月18日は甲府のハーバーズミルでライブでした。ぶどう園に囲まれた甲府の郊外のカレー屋さんの18年目を記念するライブです。毎年やっています。
去年と同じように、今年もクラリネットの安藤健二郎くんの車で、ユミと3人で行きました。
ライブのリハーサルの前にカレーを食べたかったので、少し早めに横浜を出発しました。書き忘れましたけど、安藤くんも横浜の人です。
去年ハーバーズミルのカレーをはじめて食べてその味が忘れられない安藤くんは、途中のサービスエリアで休憩したときも、後で食べるカレーのために空腹をじっと我慢。ぼくとユミだけ半分ずつそばを食べました。
どんな材料が使われているかわからないけど、ハーパーズミルのカレーはやはりとてもうまい。こんなぶどう畑の中ではなく、たとえば新宿の紀伊国屋書店の地下にでもあったらものすごくはやるんじゃない、
とぼくが言うと、「そんなに働きたくないよ」と主人の坂田くんは言う。
ただカレーを作るだけではなく、ライブを企画したり、音楽スタジオやギャラリーを建てたり、自分でも歌を作って歌ったりする坂田くんには仕事以外の時間がとても大切なのだろう。最近はギター作りに打ち込んでいるそうです。
ハーパーズミルのお客さんたちは、毎年1月になると実るぶどうです。
ぼくはそのぶどうをもいで、思いっきりぱくぱく食べる。
そんな季節外れのぶどう狩りのようなライブでした。
1月24日は大阪のレインドッグズで谷川俊太郎さんとのジョイント・コンサート。レインドッグズは梅田にあって、店の雰囲気はどこかの国の開拓時代の酒場のよう。ダンスでもした方がよさそうなのに、詩の朗読と歌のコンサートです。はじめから二人でお客さんの前に出て、かわりばんこに歌ったり朗読したり、それからおしゃべりしたりしました。
打ち合わせをしなくても、「次はこういこうか」と谷川さんからテレパシーがきます。どうしてそんなことができるかといえば、谷川さんはすごく記憶力がよくて、ぼくやユミと話したことを全部覚えているのですね。
その中から題材になりそうなものを選んでぼくにふるのです。
詩人なのに言葉を使わないから、テレパシーに思える。
谷川さんの「よしなしうた」はいつも大うけなので、ぼくが「まいったなあ」と言うと、「そうなんだよ、本当によくうけるんだよ」と無言でいいました。
谷川さんはぼくの「君が欲しい」を朗読し、その後ぼくがそれを歌いました。
1月25日は京都の磔磔で谷川さんとのジョイント・コンサートでした。
コンサートは午後3時からはじまりました。変な時間にはじまったのに、磔磔は満員になりました。やりかたは前日の大阪と同じでしたが、内容は変えました。ぼくも谷川さんも同じものはあまりやりませんでした。
二日目ともなると、自然に中身がまとまってきます。そのぶんおもしろみがないのか、客席は前日より静かでした。「よしなしうた」にも大阪ほどの反応はありません。まだなれない大阪の方がよかったという人と、内容がより濃くなった京都の方がよかったという人と両方ありました。
京都ではぼくが、谷川俊太郎作詞、小室等作曲の「あげます」を歌ったり、谷川さんが、武満徹作詞・作曲の「小さな空」をぼくの伴奏で歌ったりしました。「君が欲しい」は磔磔でもやりました。
谷川さんが磔磔で詩を朗読するのは、磔磔の主人の水島くんの夢だったのです。2年前に脳梗塞で倒れて言語障害になって、谷川さんの詩を大声で読むことが彼のリハビリだったそうです。
だからこの日の水島くんはとても幸せそうでした。
1月26日は近江八幡の酒遊館で三宅伸治くんとジョイント・ライブ。
酒遊館10周年記念イベントです。酒遊館は造り酒屋なので、お客さんには地酒がふるまわれます。ライブをする会場にも、酒作りの道具などが展示されています。酒蔵の中の濃くて深いコンサートでした。ぼくと三宅くんには共作した歌が2曲あって、その他にも一緒にやったことのある歌がたくさんあります。
またボブ・ディランのカバーなんかもやりました。一番盛り上がったのは、2部の途中でやったブルースかもしれない。たぶんブルースの好きなお客さんが多かったのです。後でお客さんに、「友部さんはフォークかと思っていたけどブルースですね」といわれました。
その翌日は豊橋のハウス・オブ・クレイジーで三宅くんとライブ。
やはり二日続くと演目を変えたくなるし、曲数も増えます。
前日に比べるとブルース色は薄い夜でした。でも内容は濃かった。
二日目で三宅くんと作った「久しぶりの町」にもだいぶなれました。
ドラムマシーンが入っても全然だいじょうぶ。三宅くんとのライブは、4月の北海道へと続きます。たぶんそのときはまた新曲も・・。
1月28日は横浜のサムズアップで、どんとのあの世での三回目の誕生日(命日)を祝う、というコンサートがありました。主催はもちろん妻のサチホさんです。
元ゼルダのサヨコさんがエイプという今のユニットでまず演奏しました。
ぼくはエイプを聞くのはこれがはじめて。ながみじゅんさんのギターはすばらしかった。
ぼくはサチホさんやパーカッションのANSAN、岡地君、ドラムスの椎野君とどんととの共作「かわりにおれは目を閉じてるよ」、ボ・ガンボスの「トンネルぬけて」、サチホさんのリクエストで「遠来」をやりました。
その後、海の幸やどんと院バンドの演奏があって、アンコールで出てきたのがフラダンスのおねえさんたち。青いムームーでゆらゆらとまるで海の波がおだやかに揺れて、白いかもめが浮かんでいるよう。
ステージで演奏されているどんとの晩年の名曲「波」に参加するのも忘れて、5人のかもめさんたちに見とれていました。
こんな風に、1月はたくさんジョイント・コンサートをしました。今年はもっともっとたくさんこういう企画があるので、ぼくはとても楽しみです。
この日記がホームページにアップされるころ、ぼくとユミはニューヨークにいます。
友部正人
2月2日(日) イマジン
ジョン・レノンのことを考えていました。ちょうど30年ぐらい前、ジョン・レノンはアメリカで反戦活動をしていましたね。そのためにアメリカの永住権か市民権がなかなかとれなかった。
現実的な人なら、反戦活動はしばらくひかえたかもしれない。
だけどジョンにとって反戦活動はしなくてはならないことだった。
そういう意味では、ジョン・レノンは空想を生きた人だった。
イマジンという歌は彼そのものだった。
「イマジンのモザイクはいつも掃除することになっています。」
セントラルパークのストロベリー・フィールズと呼ばれる場所にあるイマジンのモザイクのそばにはそう書かれているけど、後から後からそこに花を置く人が絶えない。
空想を生きる人には永住権なんて関係なかったのかもしれません。
ハドソン川が凍っているというので見に行きました。凍っているのではなく、上流から流されてきた流氷が岸に集まっているのです。
ユミは何枚か写真を撮っていました。ぼくはモデルを務めながらも、寒さに耐えていました。数日前までの気温に比べると暖かいとはいえ、吹きっさらしはこたえます。
帰り道、ユミが今出ているローリング・ストーン誌の特集がビートルズだということを思い出して、ニューズスタンドに買いに行きました。
「レット・イット・ビー」のころ紛失したライブの音源がオランダで見つかったということです。
友部正人
2月10日(月) ファッション・ショー
しばらく日記が止まっていたのは、管理人のはなおさんが旅行に行っていたためと、3月下旬に発売予定の「現代詩手帖」にもニューヨーク日記を載せることになっていて、そちらにも送っているからです。はなおさんが帰って来たので、またぼちぼちと載せていくことにします。
マンハッタンのど真ん中のブライアント公園で開催中のファッション・ショーに行ってきました。友だちがCHAIKENという会社で働いていて、招待状をもらったからです。今日は寒くなると聞いていたし、雪が降り始めていたから普段より厚着をしていったら、テントの中は暑くて、「そうだよな、裸同然の人たちもいるわけだから、寒いわけがないよな」と思って後悔しました。
そうです、ファッション・ショーの会場は真っ白な特設のテントの中なのです。
テントだから寒いだろうな、とぼくは考えたのでした。
立ち見の券でしたが、空席がけっこうあったので座って見ることができました。
前の方に有名人が来ているらしく、プレス関係のカメラマンたちがごっそりと集まって写真を撮っていました。後ろから見ていたけど、誰なのかわかりませんでした。
ショーはいきなりはじまって、あっというまに終わってしまいました。モデルはみんな背が高く、ものすごく足が長い。長すぎておかしな歩き方だな、と思ったら、
モデルの歩き方にも流行があるのだとユミが教えてくれました。それにしても変な歩き方。平らなのに階段を上がっているみたいなのです。
今年の秋物のショーなのですが、季節が冬でもあまり違和感は感じません。
もはや毛皮もウールも防寒用ではなく、ただの素材なのです。おもしろさを出すための。はじめはモデルの顔形の異様さにひきつけられました。でもすぐになれてしまうと、登場してくる服はどれもそんなに目新しくも奇抜でもないのです。どちらかというとすぐに実用になりそうな。みんな顔が似ているのでどの人が何回出てきたのかわかりませんでしたが、最後に全員が並んで出てくると、相当大勢いたのがわかりました。誰にどれを着せるのかは、どうやって決めるのでしょうか。自分の服で出てきたのかな、と思えるぐらい似合っている人もいました。
来るときは地下鉄に乗り、帰りはバスにしたら、乗り継ぎの2時間内だったので帰りのバス代はかかりませんでした。けっこう興奮して見たけれど、それほど短いショーだったのです。雪はそれからもだらだらと一日中降りました。
友部正人
2月13日(木) 雲のタクシー
オリジナル・ラブの田島くんがニューヨークに来ていて、ゆうべは田島くんとぼくとユミの3人で、ダウンタウンに住む矢野顕子さんの家で手作りの夕食をご馳走になりました。
矢野さんのアパートは広々としていて、暮らし方にもゆとりを感じました。
それですっかり長居をしてしまい、帰路についたのは夜中の1時前。
しばらく寝不足が続いたので、それを口実に今朝は10時ごろまで寝ていました。
メトロポリタン美術館でレオナルド・ダ゛・ヴィンチのドローイング展をやっていて、それを見に行きました。レオナルド・ダ・ヴィンチは女の人をとてもきれいに描きます。エル・グレコやボッシュやブリューゲルなんかも見ました。どれも昔話みたいでとてもおもしろい。
夜は田島くんとマネージャーの近本くんがうちに遊びに来て、茶そばサラダとお刺身とほたてのソテーと味噌汁で玄米ご飯を食べました。
ニューヨークのマグロは新鮮でとてもおいしいのです。
それからワインを飲みながら、レコードやCDを聞きました。
ぼくと矢野誠さんが10年ぐらい前に出した「雲のタクシー」を、ユミが田島くんに聞かせました。このアルバムは全曲矢野さんとの合作で、歌を録音するとき、リズムと音程に苦労したことを覚えています。
「雲のタクシー」をはじめて聞きながら、田島くんはいろんな批評をしてくれました。
なんかがっちりと受け止めてくれている気がしてうれしかった。そういう人にあまり出会えなかったアルバムだと思っていたので。
昨日矢野顕子さんも言っていたけど、何年もしてから突然よく思えるアルバムもあるのです。だからどんなものでも作っておく方がいいのです。
そう思った夜でした。
友部正人
2月15日(土) デモ行進
-5℃という寒さの中を20万人以上の人が、ブッシュのイラク侵略に異議をとなえてデモ行進をしました。
50丁目で地下鉄をおりると、プラカードを掲げた人たちがぞくぞくと国連本部のある49丁目の東のはずれに向かって歩いていきます。
すでにデモの中にいるような興奮を感じました。
三番街にたどり着くと、警察のバリケードがあってそれ以上東には行けません。行進はゆっくりと向きを変え、三番街を北上して行きます。すでに一番街も二番街もデモで埋め尽くされているそうです。三番街が一杯になると、デモはその一つ手前のレキシントン通りを北上しました。広い何本もの通りを埋め尽くした
デモは、七十二丁目まで達したそうです。
ときおり声を合わせて反戦を唱えながら、行進はとてもゆるやかに進んで行きます。乳母車を押している人もいれば、犬を連れている人もいます。大声でブッシュを批判している人もいれば、反戦のバッジを売っている親子もいます。緊迫感はどこにも感じられません。
警官たちもたいていはにこやかです。( こぜりあいで逮捕された人もいたそうですが。)あまりにも冷えたので、ぼくとユミは途中でマクドナルドに入り、コーヒーであったまりました。トイレは長蛇の列。
全体に白人が多く、黒人とアジア人がその次ぐらいです。
新聞は60年代と比較したがりますが、ぼくにはそれがどんな意味があるのかと不思議です。こういうことは懐かしがるようなことではないからです。できればこんなことはない方がいいのですから。
ユミはヒスパニック系の人がほとんどいないのはどうしてかとしきりにぼくに聞きます。ぼくには答えられません。
約二時間後、ぼくたちは五十九丁目で行進を離れ、セントラルパークをななめに横切って家へ帰りました。帽子に反戦のバッジをつけて、家を出てから帰るまでが行進だね、とはしゃぐユミと一緒に。
友部正人
2月17日(月) 大雪のニューヨークを歩いた
今日は18日、これからニューオーリンズに行くところです。
テキサスのヒューストンで乗り継ぎをしているところですが、それにしても蒸し暑い。日本に戻ってきたみたいだね、とユミは言います。今朝までのニューヨークのあの大雪が夢のようです。
昨日の朝、外へ出てみると街がとんでもないことになっていました。
大量の雪に覆われていたのです。まるでトンネルを抜けて越後湯沢に来たみたいでした。朝早かったのと祝日だったので街中がまだ寝静まっていて、交通量の多い昼間なら積もるはずもないブロードウェイも新雪でおおわれています。通りを渡ろうとするとくるぶしまで沈んでしまいます。大雪が降ったのだと実感しました。一軒だけ開いていた店で新聞を買って、そのまますぐにアパートにもどりました。とてもセントラルパークまでいけそうもありませんでした。
午後になっても雪は降り続けていました。ぼくらはカメラを持って外へ出かけました。その日はじめて外に出たユミも大はしゃぎです。
ニューヨークの除雪は完全に車優先なので、除雪車が端に寄せた雪が山になっていて、道路を渡るとき歩行者は足でその山を切り崩さなくてはならず、とても大変です。年寄りは呆然と立ち尽くしてしまいます。ユミが手をとって手伝うと、そのおばあさんはやっとその山を越えることができました。
小さな通りは車が通れないくらい積もっているし、道端に止めてある車は全部雪にうずもれてしまっています。大きな通りもほとんど車の通行がなく、歩道を雪に占領された人々はみんな楽しそうに車道を歩いています。クロス・カントリー・スキーをしている人もいます。
自家用車はほとんど見かけないのに、バスとタクシーはちゃんと走っています。見晴らしのいい大通りの光景に、「大昔のニューヨークに来たみたいだね」とユミが言います。ぼくたちは古い絵葉書の中にいるようでした。
昔の雪のニューヨークの写真、ポストカード屋さんでよく見かけますよね。
コロンバス街を80丁目の自然史博物館のあたりまで歩いていきました。
車の走らない通りにはたくさんのカメラを持った人たちが行き来をしています。
すれ違う男も女も、みんな特別にきれいに見えるのはたぶん雪のせいでしょう。それからまた歩きにくい小路をぬけてアムステル街を渡り、いつもなら混んでいて何十分も待たないと座れないカフェ・ラロへ。
映画「You've got mail」で有名になった店です。うれしいことに今日はガラガラで、スチームのすぐ横のテーブルに案内してくれました。
濡れたかばんや上着をスチームで乾かしながら、コーヒーを飲み、ケーキを食べました。ここのケーキは高いね、なんて言いながら。
82丁目のブロードウェイの書店、バーンズ・アンド・ノーブルに行くと、まだ4時なのに閉店するところでした。雪のせいなのか休日のせいなのか。
カート・コバーンの日記が出ていて、立ち読みしようかと思ったのです。
ブロードウェイ沿いにあるお店は今日はどこも暗くて閉まっているように思えるのは、外が雪のせいで明るすぎるからでしょうか。それでもいつも行くワイン屋は開いていて、カリフォルニア・ワインを2本買いました。
立ち止まっては写真を撮りながら、2時間かけてアパートの近所を一周しました。体はすっかり冷えてしまい、その日はもう二度と外へ出かけようなどとは思いませんでした。積雪は60センチくらいだったそうです。
友部正人
2月19日(水) ニューオリンズにて
ニューオーリンズのフレンチ・クオーターの一角にあるホテルに泊まっています。まだ夜の8時半なのにとても眠い。行きたかったライブハウスがあったのですが、とても行けそうもないので、ホテルの部屋で昨日の続きを書くことにします。
アメリカ東北部の大雪のせいで、予定より4時間も遅れてニューオーリンズにやって来ました。ミシシッピー川のほとりにある古い街です。その中でも特に歴史のあるというフレンチ・クオーターは、今は観光客のための解放区です。ビーズのネックレスを首から下げ、ビールを片手に徘徊する人たちがこの一角をちょっとした無法地帯に見せています。そんな風に見えるのを楽しんでいるような町です。実際には観光客は映画のエキストラのようだし、警官だってほとんど見かけないのです。ニューオーリンズが書いたシナリオに沿って、観光客は行動するだけなのです。
ホテルに荷物を置いて町に出かけると、ガンボやケイジャンやクレオールといったニューオーリンズ独特の料理の名前が目に飛び込んできます。
歩きながら見つけた店で、シーフード・ガンボやジャンバラヤなどを食べました。ガンボはオクラでどろっとさせたスープで、カニの味がだいぶ強かった。
クレオールはえびをトマトソースで煮たようなもので、ジャンバラヤと呼ばれる焼き飯のようなものと豆の煮込んだ料理とのコンビネイションでした。
ぼくはクレオールがおいしかったかな。
通りがかりに「ここじゃない?」とユミが見つけたのが、古いジャズの生演奏をやっているプリザベイション・ホールでした。観光客なら誰もが行くところです。
入場料は5ドルで、飲み物などはありません。すでに満員の観客たちは、わくわくしながら次の演奏の始まるのをまっています。
演奏が始まると、生演奏だということがわかります。ピアノの音がよく聞こえません。
年老いたミュージシャンたちが奏でる楽器の音は、年代物のギターのようにやわらかく乾いています。そして演奏をとても楽しんでいます。
年をとると人間もいい楽器のようになるんだなあ、と思いました。
バーボン・ストリートではバルコニーで裸の胸を見せて挑発している女に、ビーズを投げて騒いでいる群衆がいました。ビーズを投げると、また胸を見せてくれるのです。
そんなわけがわからなくておもしろそうなことがあふれているニューオーリンズのはじめての夜でした。
今日はまずミシシッピー川を眺め、フレンチ・クオーターを散歩しました。
ミシシッピー川は止まっているように静かで、とても世界で三番目に長い距離を流れてきたとは思えませんでした。ニューヨークのハドソン川の雄大さとは違い、とてもおだやかなのです。
フレンチ・クオーターを散歩した後、Mr.B's Bistroというレストランでブランチを食べました。ユミはエンジェル・ヘアーと呼ばれる細いスパゲティ、ぼくは食前酒のマティーニにハムみたいに薄く切った牛肉のサラダです。サラダはブルー・チーズが強烈でした。制服を着た大勢のウエイターがきびきびと働いていて、イブ・モンタンの映画「ギャルソン」を思い出しました。そうそう、ここはスープもとてもおいしかった。ニューオーリンズに行ったら、ぜひ行ってみるといいです。とにかくよく気がつく人たちで、ランチについているアイスティーも、氷が溶けるとまめに変えてくれます。(ぼくはコーヒーだったのですが。)
こんなところで毎日お昼を食べて、ウエイターたちともお喋りができたら、なんだかすごくいい物語が書けそうです。ぼくにはそんな贅沢はとてもできませんが。
フレンチ・クオーターの中の薬局博物館に行きました。入場料が2ドル。
アメリカの最初の薬剤師の博物館だそうです。数え切れないほどたくさんの薬をどうやって使いこなしていたのか不思議です。最初は自分で試してみたのでしょうか。薬剤師もちょっと興味のわく仕事です。
ニューオーリンズの歴史が手にとるようにわかるという、ろう人形館に行きました。
ニューオーリンズには奇妙な人たちがたくさんいたみたいです。
政治家や海賊やオカルトにとりつかれた人たちに比べると、ミュージシャンは本当にまともに見えます。
湿度の高いニューオーリンズの街には、ストリート・カーと呼ばれる市街電車がとてもよく似合います。日暮れの風を感じるからでしょうか。
ニューオーリンズの市電は、たくさんの観光客を乗せて、まるであてもなくさまよっているかのように走ります。ぼくらはその途中まで乗り、そこからまた市電で引き返してきました。市電のレールは土に敷かれていて、土の上をレールに沿ってランニングをしている人たちがいます。市電のレールは、ランニング・コースにもなっているのです。市電と人が同じ線路を走っていておもしろかった。
短い旅の締めくくりに、バーボン・ストリートで生牡蠣を食べました。ユミは生ものが嫌いなのでハンバーガーを食べていました。牡蠣フライのサンドイッチも頼んだのですが、食べきれずにホテルに持って帰りました。フランスパンに大量の牡蠣フライがはさんであるだけのものです。
ニューオーリンズに住んでいるという山岸潤士には会えなかったのですが、留守電にメッセージだけ残しておきました。アメリカ東部の方にツアーにでかけているということでした。フレンチ・クオーターにあるレコード屋の人に聞いてみたら、ライブは一度見たことがあると言っていました。
残念だったなあ、会えなくて。
友部正人
3月1日(土) 朝崎さん。
雨が降っています。今日は一日家にいて、マービン・ゲイについての原稿を書いていました。現代詩手帖の4月号に「ジュークボックスに住む詩人」の新シリーズとして載ります。
昨日は秋葉原のグッドマンというライブハウスで、フリスコと朝崎郁恵さんとぼくのイベントがありました。
朝崎さんはぼくのあこがれの人だったので、はじめての共演、すごくうれしかった。おまけにギターで一曲伴奏をさせてもらいました。
朝崎さんは奄美の島歌を歌う人。100曲ぐらいの島歌を1000通りの歌詞で歌えるそうです。その中には、朝崎さんが死んだら途絶えてしまう歌もあるそうです。現在は神奈川県に住んでいて、近くなのでギターを持って遊びに行く約束をしました。昨日は朝崎さんの方から即興で一緒にやろうよと言ってくださいました。民謡の伴奏なんてしたことがなかったので、少しどきどきしましたが、朝崎さんの歌にいつのまにか引き込まれていました。
全く言葉のわからない奄美の歌ですが、どこかでぼくも思い出せるような気がする音楽でした。
ニューヨークのカーネギーホールでも歌ったことがあるそうです。外国にはあまり行きたくない、とおっしゃっていたのがぼくには印象的でした。
フリスコははじめてでした。ライブは聞けなかったのですが、いただいたCDを聞きました。ロックっぽくしたマーティン・デニーみたいで、トロピカルでぼくは大好きでした。また一緒にできたらいいですね。
昨日はいろんな知り合いも聞きに来てくれました。マーガレット・ズロース、モールス、それからリクオ、ライブ・ノー・メディアに参加してくれた東くん、ガンボ・スタジオの川瀬さん。帰りはその川瀬さんに車で横浜まで送ってもらいとても助かりました。
友部正人
3月2日(日)インタビュー
現代詩手帖のインタビューがありました。聞き手は詩人の田口犬男さん。CD「Live no media2002」で「トマスの一生」というおもしろい詩を朗読しています。
場所は渋谷の貸し会議室のようなところ。広いテーブルがあってそこに田口さんとぼくと編集部の高木さんとユミの四人。
田口さんはぼくの詩集やエッセイ集をときどき手にとりながら、用意していた質問をしていきますが、田口さんとの普段の会話の延長みたいで、あまり緊張感はありません。
インタビューは一時間半ぐらい続いて、最後は雑談のようになって終わりました。質問は田口さんの詩のようにぼくにとってもおもしろいものでした。このインタビューは3月28日に発売される現代詩手帖に載ります。
その四月号は友部正人小特集だそうです。30周年のお祝いかな。
お楽しみに。
友部正人
3月4日(火) おおたか静流さんとのライブ、コザ
今日からおおたか静流さんとの沖縄ツアーのはじまりです。
今夜はコザ(沖縄市)のMOD'Sでした。沖縄のコンサートの開演時間はとても遅い。MOD'Sも通常は9時か9時半らしいです。今夜はジョイント・コンサートなので特別に8時から。
それでかえってお客さんは混乱してしまったようでした。
おおたかさんとのコンサートはおととしの秋の長野県のお寺以来。
それで不安もあったので、ぼくは今朝早起きをして予習しておきました。
ぼくとおおたかさんの二人で作ったオリジナルは今のところ3曲。
それにカバーやぼくのオリジナルなどを加えて、二人のレパートリーは10曲ぐらいです。合間にそれぞれのソロをはさみながら、コンサートはゆっくりと進行していきました。
おおたかさんは声を演奏する人です。だから声以外の楽器がなくても全然平気です。小さなパーカッション類をどっさり持ってきて、それで遊びながら歌を聞かせます。
おおたかさんはその声で、詩の朗読の伴奏をしてくれました。ぼくが「公園の雨」を朗読するときに、「アカシアの雨がやむとき」を伴奏で歌ったのです。
今夜は雨が降っていて、この試みはぴったりでした。おまけにとても刺激的でした。
前に全然別の歌を伴奏にしてもう一つ別の歌を歌うという実験的なレコードを聞いたことがあって、それを思い出しました。今夜の試みはそんな知的な遊びよりも、もっと無計画で無謀なものでしたが、雨というキーワードのおかげで、とってもしっくりいきました。
「ラブ・ミー・テンダー」はぼくがキーをまちがえて、おおたかさんを戸惑わせました。おおたかさんは数多くのコマーシャルをやっていますが、「ラブ・ミー・テンダー」はぼくの数少ないコマーシャル・ソングの一つです。時間的な制約がなかったので、休憩を入れて3時間ぐらいのコンサートになりました。やりながら次第にぼくは今までおおたかさんとやってきた感覚を取り戻していきました。
友部正人
3月5日(水) :おおたかさんと那覇で。
今夜は那覇のリウボウ・ホールでした。100人ほどの小ホールはほぼ満員になりました。東京や北海道から来てくれた人もいたそうです。
今夜は、おおたかさんのソロ、友部のソロ、二人の演奏、という構成でした。
前の日に3時間でやった内容を、2時間におさめました。
ぼくは久しぶりに「なんてすっぱい雨だ」を歌いました。沖縄が日本に復帰したばかりのころにコザで作った歌です。この歌の入っているぼくの3枚目のアルバム「また見つけたよ」が今月再発売されるそうです。
「私の踊り子」はギターを弾かずに、おおたかさんのハミングだけをバックに朗読しました。コザでは、ギターを弾いて、さびも歌ったのですが。
どっちもいいのですが、どっちの方がいいかはまだわかりません。
今夜も雨だったので、雨の歌と朗読のセッションを今夜もやりました。
今夜は2曲の歌に合わせて2編の詩を朗読しました。
昨日の倍です。これはこれからも続けていきたい試みです。
おおたかさんと作った「暦物語」「おばあさん」「ほしのこどもたち」にもだいぶなれてきました。作ってから10年ぐらいたちます。「ほしのこどもたち」はおおたかさんが「ノスタルジア」というアルバムで録音しています。
他の2曲もそろそろ録音しておいた方がいいかもしれません。
コンサートの後、首里までサチホさんに会いに行きました。前にどんととサチホさんが連れて行ってくれた沖縄郷土料理の店で待ち合わせをしました。ユミはそこの料理が大好きなのです。待っている間に、ぼくとユミと主催の野田さんの3人でご飯を食べました。
サチホさんや、やちむんというバンドの二人も来て、みんなで別の店へ。
ぼくとやちむんの那須くんは泡盛を飲みました。匂いをかいだだけで頭がくらくらします。おいしかった。
サチホさんはぼくとユミが今回沖縄に来るのをとても楽しみに待っていてくれたのに、誰もライブがいつなのかを知らせなかったので、今夜リウボウに来られなかったのです。それで悪かったなあ、と思って会いに行ったのです。
ぼくがおいしそうに泡盛を飲んでいるので、サチホさんも飲めないのに少し口をつけていましたよ。
あっという間に時間は過ぎて、サチホさんと別れたのは2時ごろ。ユミはサチホさんにしきりに沖縄に引っ越しておいでよ、と誘われていました。
友部正人
3月7日(金) 石垣島へ。
昨日から石垣島に来ています。昨日は夕方那覇から石垣島に着いて、今日のライブ会場のすけあくろでおおたか静流さんと前日リハーサル。
そのあとすけあくろの近くの南風(ぱいかじ)でぼくとユミとおおたかさんと田島ふきちゃんとでご飯をたべました。
今日は朝からそのメンバーで竹富島へ。今日は船が揺れるからと、後方の席に座るよう勧められました。風が強く、雨も止みそうにありません。
沖縄に来てからずっと雨です。それにすごく寒い毎日です。
出発して4分後に、ぼくの隣でユミがもう船に乗ったことを後悔しています。
バーンバーンと音をたててはずんで、深く沈む船。ぼくもこんなのははじめてで、あっという間のはずの10分もちっとも過ぎてくれません。
島に着いて、有料の送迎バスで集落の中へ。今日は雨なので自転車は無理です。狭い集落の中をあっちへ行ったりこっちへ行ったり、同じところを何回も歩きます。雨で船は揺れたけど、雨のおかげで木々も石垣の花もとてもきれい。写真を撮る目的で石垣島まで来たユミは、カメラをかまえて大喜び。石垣の続く小道に傘の色が鮮やかです。
別行動していたおおたかさんとふきちゃんとそば屋で集合。
ぼくたちが歩きまわっていた間、二人はずっと喫茶店にいたそうです。
2時45分の船で石垣島へ。帰りはあまり揺れません。後で知ったのですが、波の向きのせいらしいです。
すけあくろでのライブはソウルド・アウトで、当日券の人は店の外で並んで待っていました。
コザ、那覇と一つずつふやしてきた歌と詩の朗読のコラボレイションは、石垣島でついに3つになりました。今夜ぼくは新しく「ハシムシカ」を、おおたかさんの歌に合わせて朗読しました。ぼくの朗読は歌のようなのでとてもやりやすいとおおたかさんは言っていました。朗読のときにもぼくは歌っているのです。
「水門」を歌うとき、おおたかさんにも声で参加してもらいました。ただ美しく飾るのではなく、ちゃんとした言葉のある声で歌に入ってきました。
いろんなものにとらわれないで表現してしまうところがおおたかさんの大胆なところです。
おおたかさんとの、ほとんど楽器を使わないコンサートにもぼくはだいぶなれてきました。はじめのころの不安はうそのよう。
終演後はそのまますけあくろで打ち上げです。ぼくはワインと泡盛を自分の前において、かわるがわる口をつけました。沖縄に来てからずっと泡盛です。
それからずっと沖縄そばです。ぼくもユミも、沖縄そば(八重山そば)はぜんぜんあきないのです。
友部正人
3月8日(土) さよなら石垣島
ふきちゃんのところに泊まっていたおおたかさんは、朝の飛行機で那覇に向かったそうです。ぼくたちの飛行機は午後だったので、ホテルに荷物を預けて、石垣の街をぶらぶらしました。昨日打ち上げのときにもらった「やえやまガイドブック」を見ながら。
最初に美崎御獄(みさきおん)へ。石垣で一番強い神様がいるところだと後で聞きました。そういえば霊感の強いユミは、頭がしびれた、といっていました。
宮良殿内(みやらどぅぬず)でふきちゃんと待ち合わせ。ここは琉球王朝時代の士族のお屋敷です。家の中には入れず、庭からのぞくだけで200円でした。
カフェ・タニファでチャイを飲み、3人で一皿カレーを食べました。
タニファの主人は東京の人だけど、10代のころぼくの歌を聞いたのが、やがて旅に出るきっかけになったと言っていました。奥さんと3人の子供と一緒に、ニュージーランドで買ったヨットで、ニュージーランドから石垣島まで3年かけて旅をしたそうです。今度石垣島に来たときは、詳しい話を聞かせてもらいたいです。
すけあくろの今村さんと百さんも合流して、みんなで八重山そばを食べに行きました。
毎日そばです。そこはまだ新しい店で、観光ガイドブックにも載っていません。
今村さんは、これが石垣のスタンダードなそばだと言っていました。
今は毎日のように食べている八重山そば、今村さんが子供のころは一年に数回しか食べられないごちそうだったそうです。
そのそば屋のそばに人は通れないくらい細い小道がありました。それは神様が行き来する小道だそうです。小道は御願所と於茂登岳を結んでいるそうです。
於茂登岳は石垣島で一番高い山です。石垣島では一番天に近い山です。
神様はその山から御獄まで歩いてくるのです。石垣島には御獄がたくさんあります。
どの御獄からも於茂登岳に向かって神様の小道があるそうです。
そしてその小道の上に間違って家でも建てれば、その家の人によくないことが起こるといわれているそうです。
みんなに空港まで送ってもらいました。今村さんからはTシャツなどのおみやげをもらいました。そして「一年以内にまたぜひ来てくださいね」と言われました。
石垣島の人たちはみんなとても繊細で暖かいです。本土の人たちが住み着いてしまうのがよくわかります。
おおたかさんが帰った日の石垣島は快晴でした。おおたかさんは雨を降らせる魔物なのかもしれません。
友部正人
3月12日(水) 久しぶりの中目黒
久しぶりに代官山で電車を降りました。鈴木祥子さんとヒルサイドテラスで打ち合わせをしました。雑談が70パーセント、今度のライブの話がその残り。
鈴木祥子さんはとてもはきはきと話す人でした。大きな目と同じくらい声も大きくて、その大きな声で質問したり笑ったりします。
今度のライブの内容がだいぶ見えてきて一安心。久しぶりにユミと、代官山からは歩いてすぐの中目黒をぶらぶらしました。6年くらい前まで、ぼくたちはそこに住んでいたのです。そのころよく行った古本屋はまだ健在でした。
横浜に帰って、レンタル・ビデオ屋に行きました。鈴木祥子さんが映画「ブラザー・サン、シスター・ムーン」の話をしていたので見て見ようと思ったのです。ところが家の近所のビデオ屋にはありません。
ぼくたちが探しているものはほとんどおいてない店なのです。
中目黒のころはツタヤが恵比寿にあったからよかった。あそこなら絶対にあるのに。
というわけで何も見ないで、今読んでいる草間弥生の文庫本を読むことにしました。そういえば中目黒にいたころは外にばかりでかけて、あまり本を読まなかった。都会だったのですね。
家にいると損してるみたいな気がしてた。横浜にいるとどこにもでかけないので、本が読めてとてもいいです。
友部正人
3月17日(月) 元気でね、ハリーくん
なぜかかぜをひいてしまって調子が悪いのですが、今日はユミと、伊豆の田島征三さんに会いに行きました。
横浜から在来線で約2時間。伊豆はそんなに遠くはなかった。
駅で待っていたら、征三さんが走って迎えに来てくれました。
走っているけど音が聞こえない感じ。やせて体が軽いのです。
田島夫妻の次男、野歩くんが今働いている料亭でお昼を食べました。
野歩くんがごちそうしてくれました。
6月から3ヶ月間展覧会をするという池田20世紀美術館を見学。
いい作品がたくさん常設されています。タマヨのおおかみの絵なんかは、田島さんと兄弟のようです。
田島さんの家で1時間半ほど、ぼくと対談をしました。次号の「雲遊天下」の「補聴器と老眼鏡」の対談の相手は田島さんです。
田島さんとはとても親しい間柄で、かえって対談はむずかしいかもしれないと思ったのですが、そんなことはなくて、本音をたくさん聞かせてもらいました。
自宅に温泉をひいていて、入っていかないかと誘われたのですが、かぜなのでやめました。もし入っていたら、そのまま泊まったにちがいありません。
はじめて行ったけど、とても居心地のいい家でした。そういえば玄関に変わった居候が寝てました。ハリネズミのハリーです。ぼくたちのせいで起こされて、とても迷惑そうでした。用心のためにゴムでコーティングした手袋をしなくてはえさもあげられないハリーくん。本来ならいるはずもない伊豆の山なんかになぜ来てしまったのでしょう。ドライブしていたときに、道で拾ったそうです。
まだマツぽっくりぐらいの大きさで、はじめは落ち葉かと思ったそうですが、風が止んでも動いているので、見たらハリネズミだった。今はダチョウの卵ぐらいの大きさに成長しています。
元気でね、ハリーくん。
友部正人
3月23日(日) 夜の本屋
高山のピッキンでライブ。ピースランドという児童書専門店の中神さんが主催で、ライブのタイトルは「夜の本屋」でした。
ピースランドから絵本をたくさん運んで、ピッキンをブックカフェのように飾りました。
「夜の本屋」なので、夜の絵本ばかり選んで。
お正月にピースランドから、「ピースランドがブックカフェになりました。」というお便りをもらっていたのです。どんなカフェか見たくなって、ユミと二人で新宿から高速バスに乗ってでかけました。途中の景色のきれいなこと。八ヶ岳、南アルプス・・・。山って大きいね。
小さいけれど居心地のいいカフェでした。椅子が4つぐらい並んだカウンターだけのカフェ。中神さんがいれてくれたコーヒーがおいしかった。
今年の高山のライブは、赤ん坊が多いのが特徴でした。赤ん坊たちは赤ん坊なりのやり方でライブを盛り上げてくれました。ピッキンを飾った絵本が赤ん坊たちを呼んだのかな。
こんな風に「夜の本屋」と題して、今年はいろんな本屋やブックカフェでライブをしていきたいと思っています。次は四日市のメリーゴーランドで、4月10日です。
友部正人
3月26日(水) リクオとリハーサル
吉祥寺で、リクオくんと二人でリハーサル。3月28日のスターパインズは二人だけでやります。
最近のリクオくんの曲ですごく好きなのがあります。今日はその練習もできました。きっとうまくいくと思います。他にぼくの曲や二人の共作曲、ニューオーリンズの曲などを練習しました。
帰り道、マンダラ2に寄って、沖縄のやちむんのリハーサルを聞かせてもらいました。本番は聞けないので、と言ったら、一時間ぐらい演奏してくれました。今日のライブの第一部といった感じ。うれしかった。
やちむんの歌を聞いていると、沖縄で彼らが時間のたっぷりある暮らしをしているのがわかります。一つ一つの歌の描写がとてもていねいだからです。
時間がなければ目には入らないようなものを歌っています。東京にいて見逃しているものはものすごくたくさんあると思いました。
ぼくたちと別れた後、リクオはまた後でマンダラ2に戻り、やちむんを聞いたでしょう。そういえばリクオは、東京にいてやちむんの人たちのような暮らし方ができている人かもしれません。ぼくが好きになったリクオの新しい歌は、そういえば情景がていねいに歌われていて、絵本のようなのです。
友部正人
追伸
今日、思潮社から現代詩手帖の4月号が届きました。ぼくの詩と歌の特集号です。思ったよりたくさんの人がぼくの歌や詩について書いてくれています。夢中で読んでしまいました。みなさん、どうもありがとう。新しく書いた詩も載っていますから、ぜひ読んでください。
3月28日(金) 言葉の森で
今夜のスターパインズカフェは予想以上のおもしろさでした。やはりリクオと二人でやるのが久しぶりだったからだと思います。今までやったことが、時間がたっても失われていなかったからです。
アメリカのゴスペルを一曲やりました。リクオが教えてくれた曲です。
「神様と電話ができたら何をお願いする?」っていう歌。リクオに何をお願いするか聞いたら、「どれだけ酒を飲んでも病気にならない丈夫な体」と言っていました。
ぼくは「イラク戦争が早く終わるように」と言いました。ぼくの答えはちょっとまともすぎたかもしれません。客席の人たちにも聞きたかったのに、あまりのびのびとは答えてくれませんでした。
「言葉の森で」というコンサート・シリーズをぼくは、裸の歌に触れる場にしていきたいです。サウンドに塗り固められた演奏ではなく、ソロで聞かせる音楽。
人と人の出会いの場です。だからこれからも「あれ?」と思うような人とやっていきたいです。
リクオくんはしばらくヘルツというかっこいいバンドをやっていて、以前に比べるとぐんとエンタテイナーとして成長しました。ぼくはリクオの絵日記のような歌が前から好きです。
3月30日は「言葉の森で」の第二回、ゲストは鈴木祥子さんです。祥子さんには今回、ドラマーとしてもはりきってもらおうと思っています。祥子さんの豪快なドラムス、なかなか魅力的です。
友部正人
3月30日(日)鈴木祥子さん
ガンボ・スタジオの川瀬さんの車で吉祥寺に。
早めにスターパインズカフェに着いて、まずは楽器屋へ。と思って外へ出ると、今日のゲストの鈴木祥子さんも早めの到着。ジョン・レノン博物館に行ってきたばかりで、「WAR IS OVER」の白いTシャツがまぶしい。いい感じの一日の始まりでした。
鈴木祥子さんはドラマーでもあるので、ベースのかわいしのぶさんにも来てもらって、ライブの後半は3人バンドで演奏しました。もちろんぼくはエレキギターです。リードギターがいないので、ぼくのギターの音量は過去最大。
最後に「カルバドスのりんご」を演奏していたら、28日のゲストのリクオがいつのまにかステージでピアノを弾いていてびっくりしました。今日は別の仕事もあるので、来られるかどうかわからないと聞いていたので。
「なんか音が厚くなったな」と思って振り返ってみると、リクオがピアノを弾いていたのです。とてもうれしかったな。「カルバドス」はリクオとの共作の曲です。
コンサートが終わっても、いつまでも耳の中で鳴り響いていたのは、鈴木祥子さんのメロディにぼくが歌詞をつけた「沈まない月」です。
祥子さんの最新作の最後に、まだ歌詞のついていない未完成の曲が入っていたので、それに歌詞をつけさせてもらったのです。
それから、「カルバドス」の演奏の導入部でやったニール・ヤングの「Hey hey,my my」、勝手にぼくの頭がまだ演奏しています。
鈴木祥子さんの美しい声と豪快なドラムは、ぼくにとって新しいエネルギーの発祥地になりそうです。
それから、28日にリクオと一緒に歌った「Jesus on the main line」ですが、ライ・クーダーの「パラダイス・・・なんとか」というアルバムに入っているそうです。
ぼくは持っていないので、アルバムも曲も、正確な題はわかりません。
リクオは日本のブラックボトムブラスバンドから教えてもらったそうです。
友部正人
4月4日(金) 旭川
今夜から3日間、三宅伸治くんと二人ツアーです。今夜は旭川のアーリータイムズ。
ぼくは今日は「50歳になってからのラブソング」を二人でやりたいと思っていたのでそう三宅くんに言ったら、三宅くんも「奇跡の果実」をやりたいと
思っていたそうです。いい感じのスタートでした。
「50歳になってから・・・」はやりましたが、「奇跡の果実」は後日にまわすことにしました。アーリータイムズの主人の野澤さんのリクエストで、久しぶりに
「グッドモーニングブルース」をやりました。三宅くんはぼくの「君がほしい」を歌ってくれました。今夜のアーリータイムズは満員で、どうしたって盛り上がって
しまいます。アンコールの「はじめぼくはひとりだった」が、ぼくはとてもよかったと思うのですが。
友部正人
4月6日(日) 小樽
今夜は小樽の「あじや」でした。小樽で歌っている木本くんのお店です。
「あじや」は歌好きたちの集まる居酒屋です。この歌好きたちは聞くのも好きですが、それ以上に自分たちが歌うのが好きです。とくに店主の木本くんは、包丁をにぎっているよりギターを持っている時間の方が長い板前です。今夜も
ハーモニカをカウンターに並べ、いつのまにかぼくたちの演奏に参加していました。
そのうち客席で一緒に歌いだしました。歌を全身で浴びてるという感じでした。
二人のツアーの最終日はそんな雰囲気でした。ぎっしりとつまった客席の誰もが大声で一緒に歌い、笑い、涙ぐむという。ここまでいっちゃうともう、美しいというしかないな、というくらい。
ぼくはこの3日間、ライブの楽しさを堪能しました。それからギターを弾くよろこびを。
最終日の今夜は、「奇跡の果実」をやりました。3日間毎日やったのは、「渡り鳥」「ひさしぶりの町」「ミッドナイト・スペシャル」「グッドモーニングブルース」「ぼくは君を探しに来たんだ」「ゆーうつ」「はじめぼくはひとりだった」「イッツ・オール・ライト」「早いぞ早いぞ」などです。
詩の朗読も毎日やりました。三宅くんの朗読、なかなかいいのですよ。
何よりもぼくは今回、ディミニッシュとオーギュメントというコードを覚えたのが成果でした。これを自分の歌に活用できるかどうかは別の話ですが。
友部正人
4月5日(土) 札幌
今夜は札幌の「くう」でライブでした。くうが何のくうか知りませんが、空前の入りのくうみたいにたくさんお客さんが来ました。
今回のツアーはぼくが最初に歌い、それから三宅くんが歌って、その後に二人で1時間10分ぐらいやるという構成です。それぞれのソロの部分で、詩の朗読もやっています。三宅くんも「ライブ・ノー・メディア」の参加者です。
それにしても今夜の三宅くんはとても生き生きしていました。
本番の前は「眠い眠い」と言っていたのに。いきなりノリノリの曲ではじめました。
ぼくはモジョ・クラブのころの三宅くんを思い出していました。
ぼくは歌と詩の朗読を交互にやっています。今年は新しく出した詩集や現代詩手帖4月号のぼくの特集などのせいで、どうしても詩を紹介したくなります。
歌をふやすには、早く次のアルバムを出さなくてはなりません。でもその前に、鎌倉芸術館でのぼくの30周年記念のライブ盤が出る予定ですが。
現代詩手帖の4月号、読んでくれましたか。反応があまりないので気になります。
いろんな人がいろんなことを書いてくれていて、うれしいです。月刊誌なのであっというまに書店からなくなりますよ。
今夜は、現代詩手帖で始まったエッセイの連載「ジュークボックスに住む詩人」の話をして、次号に書く予定の、「シティ・オブ・ニュー・オーリンズ」を日本語で歌いました。
友部正人
4月7日(月) ラジオ・ノスタルジア
1時から2時までの一時間、新しくオープンしたばかりの札幌駅の中にあるラジオ・ノスタルジアに出演しました。ラジオ・ノスタルジアは中高年向けのコミュニティ・エフエムで、リクエストがあれば軍歌も流す放送局です。
そこのマルさんという方が70年代に聞いていたぼくの歌を、彼のラジオ番組でかけていたらしいです。それを聞いたぼくの友人がラジオ局にぼくの最近の
資料を送ってくれたりして、それで出演することになったのです。
どんな感じだったかというと、マルさんのぼくの昔の歌への思いを本人を前にしてぶちまける、という内容でした。ぼくとしては照れくさかったりうれしかったりです。
マルさんはその後のぼくのことは全く知らなかったので、「働く人」などの新しい歌もかけてもらいました。音がいいスタジオで、改めて「休みの日」の音の良さがよくわかりました。
マルさんが最近のぼくの歌も好きだと言ってくれたら、またそのうちスタジオに遊びに行くかもしれません。
友部正人
4月9日(水) 磔磔29周年
京都磔磔の29周年イベントの第一日目にソロで出演。磔磔のアニバーサリー・イベントははじめて。磔磔は拾得の次に京都で一番古いライブハウスです。
どちらも蔵なのが特徴。おそらく日本でも最古のライブハウスでしょう。
29年前の京都の話をしながら、その当時の歌を何曲か歌いました。
このところぼくの1〜4枚目のアルバムが再発売されて、「休みの日」がちょっと古くなった感じ。本当は25年以上前のアルバムなのに。この逆転した感じをもう一度逆転するために、ぼくとしては新作を作りたいところです。
今夜はちょっとのっていたのか、2時間があっというまに過ぎてしまい、
かといっていつまでも歌っていられないので、「ぼくは君を探しに来たんだ」で終わりにしました。近所の方たちからのお祝いのお花も一日目なのでまだしゃんとしていて、声が自然に出るのを助けていたみたいです。
友部正人
4月10日(木) メリーゴーランド「夜の本屋」
四日市のメリーゴーランドでライブ。メリーゴーランドは27年も続いている児童書専門店です。夜7時の閉店を待ってお客さんの入場。
コンサートは8時からです。題して「夜の本屋」、その2回目です。1回目にやったのは3年前、どんとがなくなった直後でした。コンサートのために青い背表紙の本ばかり並べた本棚は、悲しい海の底のようでした。
今夜はオープニングでウクレレ・デュオのサニーサイドアップが演奏してくれたので、とても明るい雰囲気ではじまりました。サニーサイドアップはメリーゴーランドの店主の増田さんと従業員の潤ちゃんの二人組です。全曲オリジナルのCDも出しています。
増田さんのウクレレと一緒に、一曲目にぼくは「ふあ先生」をやりました。
「Live no media」から「デイブ・ヴァン・ロンク」を朗読したり、再発売された「また見つけたよ」の中から「早いぞ早いぞ」を歌ったりしました。
「アメリカの匂いのしないところへ」を朗読したせいか、「夜中の鳩」という詩集がとてもよく売れました。本屋なのでちょっとサイン会みたい。
3年前とはちがい、今夜はからっとした楽しいコンサートになりました。
友部正人
4月13日(日)どんしんくとぅわいす
横須賀市追浜の「どんしんくとぅわいす」で大塚まさじと二人でライブをしました。
「どんしんく・・・」は20人しか入れない小さなお店です。京急追浜駅から徒歩10分という不便なところにあるにもかかわらず、このお店のファンが多いのはやはり食べ物がおいしいからだとぼくは思います。それから店のオーナーの高橋さん夫妻の人柄だろうか。
今夜はぼくがまず1時間、その後大塚まさじが1時間という構成でした。
ぼくが大きな声で歌った後の、まさじの暖かく静かな歌は妙に心にしみました。
途中からまさじの演奏に加わったハーモニカの田中さんもがんばってました。
世の中にはハーモニカのうまい人がたくさんいますね。
ライブの後はそのまま打ち上げです。入場料には打ち上げの会費も含まれていて、ほぼ全員が残ったのではと思います。田中さんのハーモニカを借りて吹いたりして、ぼくもずいぶん騒いだような気がします。帰りの電車がとてもきらきらしていたのは酔っ払っていたせいでしょう。
友部正人
4月15日(火) ライブ盤の編集
一通りのライブが終わり、やっと30周年記念コンサート「あれからどのくらい」のライブ盤の編集にとりかかっています。
鎌倉芸術館のライブでは4時間歌ったのですが、それを何回も聞きなおしています。
ロケット・マツがアレンジしたバンド編成の演奏はどれもすごくいいです。
できれば6月中旬までに発売できるようにしたいです。
現代詩手帖4月号が書店で見つからない、ということをあちこちで聞きました。
確かにぼくもあまり見かけません。京都の磔磔に来てくれたお客さんは、京都の書店には平積みされていると言っていました。旭屋や紀伊国屋などの大型書店にはあるみたいです。前に編集部の高木さんが書き込んでいましたが、直接思潮社の営業部(03-3267-8153)に申し込めばいいそうです。
そうやって直接買う人も多いそうです。
友部正人
4月18日(金) 田島貴男さん
5月27日の「言葉の森で」第三回のゲストの田島貴男さんと打ち合わせ。
といっても、レコーディングが終わったばかりの歌を聞かせてもらったり、彼がすごく好きだというカエタノ・ベローソの古いアルバムを一緒に聞いたりして、その合間に内容の話をしたという感じでした。最後に田島さん自慢のギブソンを弾かせてもらいました。ギブソンにしてはまあるい音がして、気持ちがいいので弾いているうちに、ギター教室みたいになってきました。ぼくは彼からむずかしいコードを二つ教えてもらいました。ぼくは彼に、ぼくがデイブ・ヴァン・ロンクから習ったブルースを2曲教えてあげました。打ち合わせでそれが一番楽しかったかな。
当日は二人でまた今日みたいにギターを弾きましょう。
友部正人
4月19日(土) 「過去のない男」
今製作進行中のライブアルバム「あれからどのくらい」のジャケットの打ち合わせでユミと渋谷へ。「ブルースを発車させよう」や「no media」シリーズの宇佐美さんがまたデザインをしてくれます。
帰りに恵比寿ガーデンシネマで「過去のない男」を見ました。
アキ・カウリスマキの新作です。コンピューターなんか使わなくても、こんなにおもしろい映画が作れるのですね。大感激。映像ばかり派手にした映画は、記憶に残りません。
見ている最中だけの映画なのです。でも今日のような映画は記憶に残るので、見終わってもずっと映画なのです。コンピューターを使って画面を派手にすることは、映画には損なことに思えます。
暴漢に襲われて記憶をなくした男の話です。男は救世軍の女に恋をします。
男には妻がいたけど、女には初恋でした。ハンニバルという犬が男になつきます。
男は銀行強盗に巻き込まれます。いろんなことが起きるけど、映画は見ている人にそっと近づいてきます。気がつくと、映画はぼくの隣で、座席に座って自分の映画を見ていました。そんな感じのする映画でした。
つい何日か前にも同じ恵比寿ガーデンシネマで、ユミと「ボウリング・フォー・コロンバイン」を見ました。マイケル・ムーアという人、最初の印象よりすごく繊細な人でした。もっとワイルドな人を想像していた。最後にチャールトン・ヘストンを追い詰めるところや、Kマートから弾薬を追放してコロンバイン高校の生徒たちと喜ぶところなど、とても暖かくていい感じ。
友部正人
4月21日(月)マスターリング
15時間かかってライブ盤「あれからどのくらい」のマスターリングが終了しました。
終わったのは午前1時を過ぎていました。ずっとつきあってくれていたロケット・マツと音響オペレイターの小俣くんに、六本木から横浜まで車で送ってもらいました。真夜中の首都高を走って。こんなことめずらしいなあ。
横浜に着いたら2時を回っていたけど、鎌倉芸術館のときにお祝いでもらったおいしいシャンペンでみんなで乾杯。本当の乾杯でした。
音はCDができあがってからのお楽しみ。完成は6月下旬になるでしょう。
友部正人
4月22日(火) マーガレット・ズロース
新宿ジャムにマーガレット・ズロースを聞きに行きました。
ジャムは昔のパワーステーションのななめ向かいにあって、ユミはその当時のことを思い出していました。当時パワーステーションは東京で一番大きなライブハウスで、音響もしっかりとしていてぼくも時々はそこでライブをしていたんだけれど、一回だけぼくのライブでダフ屋が出たこともあったんです。
クリームのようなバンドの後に、マーガレット・ズロースが出てきて、いきなり「大阪へやって来た」をはじめました。練習は2回だけと言っていたけど、なかなか緊張感があってよかった。ぼくが歌うと時代錯誤的な感じがするのに、彼らが歌うとそうではないのはなぜ?そのあと「夜明け前」と「天才秀才馬鹿」をやって、新曲の「今夜のライブの話をしよう」と「斜陽」。この2曲に前作の「紅茶の歌」はマーガレット・ズロースのぼくのベスト3です。
ぼくとマーガレット・ズロースは、6月1日に新宿ジャムで一緒にコンサートをすることになっています。そのためにリハーサルの時間もたっぷりとってあります。聞く人によってはへたに聞こえ、聞く人によってはたまらなくいいマーガレット・ズロース。ぼくももう少し彼らを聞き込んでからジョイント・ライブに臨みたいと思います。
彼らの後にやったゴーグル・エースというバンドもよかった。
バンバンバザールやクレイジーケンバンドのようなのですが、もっと若々しい。
ドラムの女性がものすごくよかった。オムニバスCD「コンパクト・ネオンホール」に入っていた「モノラルの少女」もすてきでした。
終了後に話をしてわかったのですが、ぼくとユミは前に長野のネオンホールで彼らと会ったことがあったのだそうです。
久しぶりの新宿で、今夜はおもしろいライブを聞きました。
友部正人
4月27日(日) 東京Bob
東京Bobが横浜のサムズアップでライブをやりました。
去年の暮れにある友だちが東京BobのCDのコピーを送ってくれて、ぼくはどんな人がやっているのかなと思っていました。アメリカ人のディランフリークの友だちに聞かせたら、何もかも完璧でびっくり、と言っていました。
最近のディランの歌い方をコピーしているのですから、よりリアルなはずです。
その友だちはそのCD-Rをアメリカのラジオ局に送ってみると言っていました。
ライブではかつらをかぶってサングラスをしているのでわからなかったけど、後で会ってみるとまだとても若い人でした。入谷にあったお饅頭屋さん「麦マル」の閉店パーティーでの、ぼくのライブにも聞きに来てくれたそうです。
ボブ・ディランの声は年齢とともに大きく変化していますが、ボブ・ディランの声の影響力は一貫しているような気がします。東京Bobのような若い人が最近のボブ・ディランの物まねをするのを聞くと。たとえ言葉やメロディが忘れられても、ボブ・ディランの声はずっと影響力を持ち続けるのではないでしょうか。
どれだけ似ているかということよりも、ボブ・ディランの歌として楽しんでいるぼくがいました。バンドの演奏もなかなかいいのです。演奏している人たちの楽しそうな顔がよかった。選曲は地味でした。ボブ・ディランをあまり聞かないユミには、なじみのない曲が多かったようです。おそらくボブ・ディランもステージではやったことのない曲もあったのではないでしょうか。
でもぼくには全部よく聞いたことのある曲ばかりでしたが。
終了後、上野でボブ・ディラン博物館をやっている方に紹介されました。
ボブ・ディランに関するものが世界中から集められているそうです。
ぼくはすぐにでも行ってみたくなりました。
友部正人
5月2日(金) 声の音楽
明日からニューヨークです。リクエストタイムズに載せた「ザ・マン・イン・ミー」と「パリの友だち」の注文がFaxでたてつづけにありました。「パリの友だち」は13年前の一人旅のとき、イラクのクウェート侵攻で空港が閉鎖されて、バグダッドのホテルで一週間ぐらい足止めをくらったときの話です。
8日目にヨルダンのアンマンに出国できたのですが、結局帰りのチケットは無効になり、日本でユミがクレジットカードを作ってくれて、それで帰りのチケットを買うためにロンドンまで行かなくてはなりませんでした。
つまり余分の旅費は持っていなかったのですね。
思いも寄らぬバグダッド滞在でしたが(本当はまっすぐパリまで行く予定だった。
パリの友人が空港で待っててくれたのです。)、よかったのはイラク航空がバスをチャーターして、足止めされた旅行者全員をバビロンの遺跡に連れて行ってくれたこと。
砂漠を長時間かけての移動でしたから、イラク航空が準備してくれたお弁当の機内食は腐っていましたが。イラクは暑いので、毎食お皿の端にのっている生のトマトや玉ねぎはちょっと腐りかけでした。
5月27日の「言葉の森」三回目のゲストの田島貴男くんが、まだ言葉のついていない曲を持って横浜まで来てくれました。ぼくにあまり時間がなくて、せっかく来てもらったのに横浜を案内できなかった。
「Live no media 2002」を聞いて、今は朗読に夢中になりそうだということです。
これから自分のコンサートでも、朗読を取り入れていくみたい。もちろん、「言葉の森」でも、今までは考えられなかった田島くんによる朗読が生で聞けると思います。
昨日のスターパインズカフェからの連絡によると、店頭でのチケットはもう売り切れだそうですが、チケットぴあには50枚ぐらい残っているそうです。
友部正人のコンサートですから、オール・スタンディングということはありません。座って聞けます。
ある人たちには受け入れられなかった詩の朗読ですが、ある人たちには確実に浸透していくようです。あらゆる声が音楽の世界を埋め尽くす日がいつか来るかもしれません。
友部正人
5月4日(日) レコード・フェア
今日からニューヨークの地下鉄とバスが2ドルに値上がりしました。
今までは1ドル50セント。一日乗り放題が4ドルから7ドルに、一週間載り放題が17ドルから21ドルに。タクシーの初乗りが2ドルなので、ずいぶん高くなった気がします。
今日は1週間乗り放題を買ってユミとダウンタウンに。あっちこっちぶらぶらして、18丁目から地下鉄で帰ろうとしたら、駅の手前のビルの中でラジオ局WFMUが主催の中古レコードのフェアをやっていました。今日が3日間の最終日で7時までと書いてあります。
年に2回あるこのフェアで今まで、ぼくは探していたレコードのほとんどを見つけました。
マサチューセッツ州のプロビンスタウンから来ているレコード屋がとても好きなのですが、おそらくもっといろんなところから来ているのだと思います。広いコンベンションセンターがレコードとCDとビデオなどで埋まります。
地下鉄に乗ってアパートまで荷物を置きに帰り、アパートの近くの大好きなハンバーガーを食べて、ぼくだけまたレコード・フェアに戻りました。
入場料は5ドル。終了間際なのでどの店もレコードを半額に値下げしています。
現代詩手帖のぼくの連載「ジュークボックスに住む詩人」で取り上げた「シティ・オブ・ニューオーリンズ」の作者のスティーブ・グッドマンのレコードが見つかりました。
ジャケット写真を載せるので4月ごろ横浜で探したのですが、見つかりませんでした。(代わりにアーロ・ガスリーのジャケットにしました。)
ブラブラ場内を歩いていたら、まことくんに声をかけられました。今年も参加していたのです。彼はブルックリンの自分のロフトで、無許可の中古レコード屋をやっています。
胸の大きなディーラーのバッヂが目立ちます。
「日本ではSARSはどうなの」とさっそく聞かれました。ニューヨークではまだ感染した人はいないのに、みんなとてもぴりぴりしていて、アジア人の人種差別に発展しそうだということです。そういえばニューヨークに来るときの飛行機では、中国人はみんなマスクをしていました。明らかに花粉症対策ではなくて。
病院の待合室でアジア人が咳をすると、待合室から誰もいなくなるそうです。
香港帰りの中国人を診察した後は、必要以上に手を何度も洗ってしまうという医者の談話がニューヨークタイムズに載っていました。日本でマスクというと花粉症なので、ぼくには何の恐怖もまだありません。
年に2回のレコードフェアは5月の最初の週末と11月の最初の週末に3日間ずつ開かれます。5月は春一番コンサートがあって、今まで一度も参加できませんでした。
11月はちょうどニューヨークシティ・マラソンとぶつかっています。今年は春一番を欠席したせいで、レコードフェアに行くことができました。
友部正人
5月7日(水) お風呂の蛇口とアレクセイの泉
今までぼくは蛇口とか栓とかと呼んでいたのですが、正しくは日本語でなんというのかわからなくなってきました。つまり水道の水を出したり止めたりする蛇口のところの栓のことなのですが。
ニューヨークのアパートのお風呂の陶製の栓がもうずっと長い間ポロリと欠けたままになっていたのです。欠けるたびに瞬間接着剤でまたくっつけてはいたのですが、できれば新品に取り替えたくてしょうがなかったのです。ビルの管理人に相談してみてももう在庫はないというし、近所の配管部品の専門店に行っても同じものはありませんでした。
3軒の店が口をそろえて「レキシントン街の95丁目に行け」と言うので、今日ユミと二人でそこまで行ってみました。食料品や薬や本など、表の世界の店にしか入ったことのなかったぼくには、配管部品の専門店は刺激的でした。しかもその総本山のようなところです。専門知識のないぼくはどう質問していいのかもわかりません。
ユミが撮った蛇口の写真を見せて、「この栓が欲しいんですけど」と言うだけです。
そしたらすぐに「それはガーバーだね」という返事が返ってきました。「えっ、コーラーって聞いてるんですけど」と言うと、「じゃあ、今それを持ってきて見せてあげるから、そうすればガーバーだということがわかるよ」と言うのです。ガーバーもコーラーも、変な名前ですけど風呂やトイレのメーカーです。「ほらね、それと同じものはガーバーだけなんだよ」とニコニコしています。すてきなあんちゃんでした。長い間欲しかったものがやっと手に入って、ぼくもニコニコでした。
今開催中の「トライベッカ映画際」で本橋誠一さんの「アレクセイと泉」をやるというので見に行きました。チェルノブイリの事故で放射能に汚染された村に残って生きる55人の老人と1人の若者アレクセイの映画です。あらゆる場所から放射能が検出されているのに、村の泉からは全く放射能が検出されていません。老人たちやアレクセイが村を出ないのは、その泉があるからです。
坂本龍一の音楽が効果的でした。映画にとても影響を与えていたと思います。だから坂本龍一の音楽がもしなかったら、また別の感じをぼくは受けたかもしれないです。
老人たちもアレクセイもとてもよく働きます。とてもよくウォッカを飲みます。老人たちには老後なんてありません。アレクセイもこの村で自分の人生を生きようとしています。
誰も放射能を恐れてはいません。それも昔からの泉があるからでしょう。老人たちが楽しく生きられるなら、たとえ放射能に汚染されていても、そこは最高の村にちがいありません。
友部正人
5月9日(金) 星に願いを
今週の水曜日にユニオンスクエアのファーマーズマーケットで買ったほうれん草、すごくたくさんあったけど、今日やっと食べきりました。茎が太くてがっしりしているけど、噛むとやわらかい、葉っぱの大きなほうれん草です。
鍋でほうれん草をゆでていると、「あまりゆでると栄養が逃げてしまうから、ほんの少しだけゆでる」という「アンネの日記」の一節を思ってしまいます。
「これじゃ栄養は逃げちゃったかな」と思いながらいつもほうれん草をゆでています。
ほうれん草のバターいためはぼくが生まれてはじめて覚えた料理です。こんなのは料理とはいわないのでしょうが。小学校の家庭科の授業で習いました。
学校で習って今も役立っていることはほうれん草のバターいためです。
ユニオンスクエアの前のリパブリックというエスニック料理の店で、ニューヨークに住む日本人の友だち、メグと待ち合わせ。3人で無国籍風のそばを食べました。
その後、8番街にあるアンティックカフェ・バーで、コーヒーを飲みながら、夜12時近くまでおしゃべりしました。といっても主にぼく以外のユミとメグがしゃべるのを、ぼくは咳をこらえながら聞いていたのです。ニューヨークに来てすぐに風邪をひいて、咳には気を使います(時期が時期なので)。
というのも、こちらは肌寒い日が続いているからです。明日はもう少し暖かくならないかな、と3つぐらいしか見えない夜空の星に頼んでみました。
友部正人
5月15日(木) I've got a new guitar.
ニュージャージーに住むジョーという知り合いの家に遊びに行きました。
目的はジョーに会うことと、彼のボブ・ディランとブルース・スプリングスティーンのコレクションを見せてもらうため。マンハッタンのクリストファー・ステイションからはじめてPATHという電車に乗りました。全部ホーボケン行きだと思っていたから、来たのに乗ったらニューアーク行きでした。
最初の駅で降りてホーボケン行きに乗り換えました。
ホーボケンのフェリー乗り場の横の、ハドソン川に面した公園からマンハッタンを眺めました。さぞかし対岸の燃え落ちるワールドトレードセンターがよく見えたでしょう。
ジョーの家はベイヨーンという町のはずれ、ニューアーク空港が入り江の向こうに見えるあたりにあります。何にもないさびしいところでした。
ジョーは一人暮らし、32年も今の自動車修理の仕事をしています。
大雪が降るとタイヤ交換でいそがしく、収入もふえるそうです。歩合制なのかも。
彼とはランブリング・ジャックのコンサートで知り合いました。先月50歳になったそうです。
彼の家には食器というものがほとんどありません。紙のコップ、紙のお皿で、使ったら捨ててしまうのだそうです。そんなことよりも、彼の人生で大切なのはボブ・ディランとスプリングスティーンとギターなのです。
いろんなギターを見せてもらいました。日本のテスコなんていうのも持ってた。
それからディランやスプリングスティーンのたくさんの写真。
ボブ・ディランがはじめてスタジオ・レコーディングしたというハリー・ベラフォンテの「ミッドナイト・スペシャル」でディランはハーモニカを吹いているのですが、なかなかうまくいかなくて、「はい、次はテイク16。」なんてやっているのが延々入っている海賊版CD。ハリー・ベラフォンテもちゃんとつきあって歌っているのです。
その当時はまだモノラル録音だったのかなあ。1962年くらい。
日本には東京ボブという人がいますが、イタリア・ボブもいるのです。若いころのディランを真似していました。今の時代、奇妙なものが好まれるようです。ディランは今の時代にマッチしているようです。
ここでまったく予期していなかった展開に。突然ジョーが、近くのマンドリン・ブラザーズというギター屋に行かないか、と言うのです。
ベイヨーンから橋を渡るとすぐにスタテン・アイランドだから近いというのです。
これは驚き! 前から行きたかったところです。でも、マンハッタンからだとフェリーに乗ってまたバスに乗り換えてと大変そうなので行った事がなかったのです。
マンドリン・ブラザーズはショウウィンドウもなく、普通の一軒家のような店でした。
外から見るとそんなに大きくはないのに、中に入ると何部屋もあってまるで魔法のよう。
ものすごいギターの量です。それを見ただけで興奮してしまいました。さっそくギブソンを七本ぐらい弾いてみました。
どれもすごくいい音です。どれでもいいから欲しくなってきました。ギブソンだけでも、一つ一つ弾いていたら一日かかりそうです。
ユミもめずらしく一緒になって興奮しています。どうやらこれは買ってしまいそうな雰囲気なのです。そしてとうとうL-140というギブソンのギターを買ってしまいました。
新品です。小柄でちょっとぼてっとしています。おもしろい形。ジョーもぼくを見ていて、この次は自分も買おうと思ったようです。ギターにはどうも魔力があるみたいです。
音だけではなく、ギターが持っている雰囲気にも。
家に帰って12時ごろまで弾いていました。まだ新しい音がします。
早くライブで使ってみたい。ぼくが一人でうっとりしていると、横からユミが「ちょうどいい誕生日プレゼントになったね」と言います。
忘れていたけど、そうか、もうすぐ誕生日か、それでめずらしくギターを買えとすすめていたんだな、とはじめてわかりました。
友部正人
5月18日(日) デイブ・ヴァン・ロンク・デイ
去年の2月に亡くなったデイブ・ヴァン・ロンクをしのぶコンサートが、グリニッジ・ビレッジのボトムラインというライブハウスでありました。出演者が一人一曲ずつデイブのレパートリーだった曲か、デイブの思い出にまつわる曲を演奏するというコンサートです。
ぼくはユミと開場時間の30分も前からボトムラインの外で並んで待ちました。
少し遅れて友だちのメグもやって来ました。
ぼくたちの席はステージのまん前です。ぼくはステージの上に右ひじをかけて、開演までの1時間半の間にワインを2杯も飲んでしまいました。
楽屋入り口の近くで友だちのフランク・クリスチャンが誰かと話しています。
彼はライブの前は飲んで軽く酔っ払います。
客席にデイブの奥さんのアンドレアがいたので、ぼくが朗読した「デイブ・ヴァン・ロンク」の入っているCD「Live no media 2002」をプレゼントしました。
出演者は30人近くいました。全員が思い出を語りながら歌うので、コンサートは3時間に及びました。デイブのギター教室の生徒だった人もたくさんいました。プロで活躍しているクリスティン・レビンもそうです。デイブはずいぶん昔からギターを教えていたようです。ニューヨークにいるときしか通えなかったけれど、ぼくもデイブの最後の生徒の一人です。
ぼくたちのテーブルの向かいのニューポートから聞きに来ていた老夫婦に、ぼくもデイブの生徒だったと言ったら、「さぞかし悲しいでしょうね」とお悔やみを言われてなんだか照れくさかった。
それにしてもみんなとてもうまかった。あんなふうにはとても弾けない。
スザンヌ・ヴェガはときどき出てきて、今年の夏に出版される予定の、デイブについての本を朗読しました。
ピーター・ポール・アンド・マリーのポールは、子供のころ得意だった口真似を披露しました。すっかり様子が変わったパトリック・スカイはバグパイプを演奏しました。
フランク・クリスチャンはステージの上からぼくたちを見つけてうれしそうでした。
オデッタ、リッチー・ヘブンス、デビッド・ブロンバーグらが次々と演奏しました。
内容を書くと長くなるので書きませんが、書かないとどうもそっけないですね。
最後は全員で「グリーン・グリーン・ロッキーロード」を歌いましたが、変則的なコーラスなのでなかなかみんなそろいません。ぜんぜん合わなくて、それがまたおもしろかった。
みんな本当にデイブのことが好きだったのですね。
デイブ・ヴァン・ロンクの名前は、正式にグリニッジ・ビレッジの一本の通りの名前になって残るそうです。市会議員が来て報告していました。グリニッジ・ビレッジの通りには、どんな短い通りにも名前がついています。歴史のあるグリニッジ・ビレッジの通りの名前を変えるのは大変なことだったそうです。それからニューヨーク市のカレンダーに、デイブ・ヴァン・ロンク・デイという日も誕生するそうです。
子供のころからジャズやブルースなどの音楽にめざめ、グリニッジ・ビレッジに集まるあらゆるミュージシャンたちに影響を与えたデイブ・ヴァン・ロンクは、ぼくが音楽をはじめるきっかけになった元の元の人でした。ぼくもラジオから聞こえてきた、グリニッジ・ビレッジからの音楽を聞いて歌を歌いはじめたのです。
友部正人
5月22日(木) 戻ってきました。
今日、日本に戻ってきました、と報告するほどのことはもうなくなってしまいましたが。ぼくもユミも元気です。
今回はニューヨークがとても寒くて、気管支炎ぽい風邪をひいて、ニューヨークにいる間中つらかった。次々といろんなタイプの風邪を積極的にひいてしまって嫌になります。
3月下旬ごろからひどくなった腰痛も、最近やっとよくなりました。
腰痛が無縁ではない年になっていたのですね。重たいものを持つのは危険です。近所の整体の先生に診察してもらったのですが、腰よりももっと肩の方がこっているそうです。
長年肩からギターを下げていたせいです。ぼくには何の自覚症状もありませんが。
風邪をひいても腰痛になっても、直るのに時間がかかります。それがとても嫌です。
毎回のことですが、横浜に帰ってくると郵便物が大量にたまっています。
局留めにして出かけるのです。「Yomiuri Weekly」という週刊誌の5月25日号に、イメージ画像つきで「一本道」の詞が掲載されていました。2ページの見開きです。青山246あたりの日暮れ、という感じの画像です。
「雲遊天下」の「補聴器と老眼鏡」という連載では、田島征三さんと対談しています。
田島さんはリーディンググラスと老眼鏡は別のものだと思っていたそうです。
現代詩手帖5月号の「ジュークボックスに住む詩人」は、70年代にアーロ・ガスリーが歌ってヒットした、スティーブ・グッドマンの「シティ・オブ・ニューオーリンズ」を取り上げています。その中で、今年のニューオーリンズのジャズ・フェスティバルに行くかもしれないと書いていますが、行けませんでした。今でもちょっと残念な気がしています。
ニューヨークの中古レコードのコンベンションで、探していたスティーブ・グッドマンの「シティ・オブ・ニューオーリンズ」を見つけて聞いてみたら、歌詞はアーロのとはほぼ同じで、ジョン・デンバーのとは違っているところがありました。ぼくにはジョン・デンバーの歌詞の方がわかりやすかったのですが。何のことかわからないでしょうから、立ち読みでもいいので読んでみてください。
現代詩手帖6月号では、6月1日に新宿ジャムで共演予定のマーガレット・ズロースを取り上げています。ライブの日までには発売になっていると思います。
友部正人
5月27日(火) 言葉の森で第3回
今夜の「言葉の森で」のゲストはオリジナルラブの田島貴男くんでした。彼の間近な観客を前にした、初めての弾き語りパフォーマンスは挑戦的でおもしろい内容でした。
ルースターズや椎名林檎や高倉健の「網走番外地」のカバーをはじめ、新曲や「接吻」のような名曲や、マービンゲイの「欲しいのは君」(友部訳)などをやりました。
このときの声だけのパフォーマンス、すごく迫力がありました。
「Live no media」に触発されて、自作の「悪い種子」の朗読もしました。
朗読はもうすぐ始まる彼のニューアルバムのためのツアーでもやりたいと言っていました。
ぼくも次のLive no mediaには彼を誘いたいと思いました。
今回のぼくと田島くんの合作は「児童文学者になる夢」という歌です。
田島くんの書いた曲にぼくが詞をつけました。ぼくはとても気に入っています。
後半は二人でやりました。曲目は次のようです。
1、愛はぼくのとっておきの色(友部-田島-友部ボーカル)
2、朝日のあたる道(友部ボーカル)
3、児童文学者になる夢(田島ボーカル)
4、君が欲しい(田島ボーカル)
5、What’s going on(友部訳)(友部、田島ボーカル)
曲間の会話の中で都はるみの「あんこ椿は恋の花」の「あんこ」って何だ?
という話になって、ぼくが「あの娘のことだよ」と言ったのですが、お客さんがアンケートに「あねこさんのことですよ」と書いてくれました。あねこさんというのは、ねえさんのていねいな言い方だそうです。うーん、とうなりましたね。どうしてそんなこと知ってたんでしょうね。
「あんこ椿」の歌の解説もしてくれました。どうもありがとう。
田島くんは本気であずきの「あんこ」だと思っていたそうです。
田島くんはぼくの世界を、ぼくは田島くんの世界を、まるでワンダフルワールドのようにのぞいた夜でした。今まで接点のなかった二つの世界が、二つのブラックホールのように合体した忘れがたい夜になりました。きっとまた一緒に何かやれる機会がくると思います。
友部正人
5月29日(木) 「ガンボスタジオ」でマーガレットズロースと。
今日は子安のガンボスタジオで、マーガレットズロースとリハーサルでした。5時間みっちりと歌いました。マーガレットズロースとは6月1日に新宿ジャムで一緒にライブをします。平均年齢26歳弱の3人バンドです。マーガレットズロースのことを、ぼくが6月号の現代詩手帖に書いていることはもう前にここで書きましたよね。そろそろ書店に出るはずですが。
ガンボスタジオは国道1号線とJRの線路にはさまれたこじんまりとしたスタジオです。
部屋は1つだけです。小さな窓から外を行きかう人たちの足が見えるのが特徴です。
半地下なので窓から足だけ見えるのです。通りからは、地下で練習しているぼくたちが見えないようです。大音量で練習していたら、ベースの低音が階上にあるオフィスに響いたらしく、2度苦情が来たようです。まるで誰かの家で練習しているみたいで、ちょっと懐かしい感じがしました。ぼくもフェンダーのエレキで練習しました。やっと自分のアンプから出てくる大音量にも慣れてきました。ぼくのギターの音色がバンドの音に心地よく混ざるととてもいい感じです。6月1日はぼくの曲を、マーガレットズロースと一緒にたくさんやります。彼らのソロの部分もたっぷりとあります。
ガンボスタジオでは5月25日にもマーガレットズロースとリハーサルをしました。
ちょうどぼくの誕生日だったので、終わってから横浜駅のそばのサムズアップまでごはんを食べに行きました。サムズアップでは、誕生日の人に「ハッピーバースディ」を店の人たちが歌ってくれるのです。そのとき大きなアイスクリームの上に、ロウソクのかわりにさしたたくさんの花火に火をつけます。
ユミはそれをしてもらいたかったようなのですが、すっかり忘れてしまいました。
ぼくはちょっとほっとしました。あまり派手に「ハッピーバースディ」とやられるのはやはり恥ずかしいから。
マーガレットズロースはぼくにアンティックなレコードラックをプレゼントしてくれました。
暖炉まで薪を運ぶバケツのような取っ手が二つ付いています。家に帰ってから、ぼくの持ってるありったけのマイルス・デイビスのレコードを立ててみました。
それからおいしいコーヒー豆ももらいました。豆は深入り、でも味はあっさりしています。
ガンボスタジオは東京の人にはとても不便な場所にあります。でも来てみるとみんないいスタジオだといいます。だから無理してでも最近は子安のガンボまでぼくのリハーサルに来てもらっています。
友部正人
6月3日(火) マーガレットズロースと。
暑くなりましたね。今日はライブ盤の打ち合わせで下北沢に行って来ました。
井の頭線の改札口あたり、いつも混んでいます。発車間際の電車に飛び乗ろうとして、ユミはドアに手をはさまれてしまった。少しはれていました。
「ドアに注意!」というステッカーの絵みたいです。ぼくはのろのろしたのではさまれずにすみました。
打ち合わせをしながら、喫茶店の二階から通りを眺めていたのですが、行きかう知らない人たちを見るのはとても楽しかった。
6月1日のマーガレットズロースとのライブのことを書きます。
すごくおもしろかった。ぼくは彼らと全部で8曲演奏しました。「ぼくは君を探しに来たんだ」はカントリー調でした。「夕暮れ」ものんびりとしたフォーク調、「愛はぼくのとっておきの色」は激しいパンク調、といった感じで、8曲とも全部感じが違っていました。
8曲全部新鮮でした。
マーガレットズロースは今が旬なのではないでしょうか。演奏ものっているし、作る歌も全部とてもいいです。聞きに来てくれた詩人の田口犬男さんが、「友部さんとマーガレットズロースはとても合っている」と言っていました。
「おやじ」、「パイロット」とぼくが現代詩手帖6月号で取り上げた歌を最初に続けてやりました。それからいくつか新しい歌があって、後半は「斜陽」などいい曲ばかり。
そうだ、ぼくは彼らの「夜明けまえ」を自分のソロの部分で弾き語りでやりました。
たくさん練習したので、今でもまだぼくの頭は勝手に歌っています。
すごくたくさんの人が聞きに来てくれました。マーガレットズロースの演奏の後、アンコールでステージに上がったら、客席の人がみんな立っているのでぼくはびっくりしてしまった。お客さんが入りすぎたので途中の休憩で椅子をかたづけたのだそうです。
来年またやりたいですね。
友部正人
6月5日(木) 江差
朝の飛行機で函館へ。空港で太田さんと待ち合わせ。
バスクというスペイン料理の店でランチを二人で食べて江差に向かいました。
何年ぶりだろう。前に江差に来たときはかぜで声が出なくなってとても困りました。
でも今回はそれを挽回することができてとてもうれしい。打ち上げのときも主催の人たちと自然に話がはずみました。やはり歌いに行くのだから声が出なかったときはつらいです。
会場は前回と同じ一番蔵、でも改築して新しくなったそうです。
公務員、ペンキ屋さん、汲み取り屋さん、漁師、委託方式の薬屋さん、いろんな職業の人が集まって主催してくれました。とれたてのほっけやツブと呼ばれる小さな貝がおいしかった。そうそう、はじめてヤドカリも食べました。うにみたいな味でした。
友部正人
6月6日(金) 今金ライブ
昨夜はオルゴール作家の谷目さんのお宅に泊まりました。
谷目さんの家は厚沢部の森の中にあります。2年前に谷目さんの家に泊めていただいて、朝早く散歩をしていて「ハート型の水たまり」という歌ができました。
今朝も早く起きて、鶉温泉まで30分ぐらい歩きました。
厚沢部の森には熊やマムシがいるそうですが、歌の妖精もいそうな気がします。
お昼過ぎに谷目さん家族と車で今金に向かって出発。途中八雲にある広大なケンタッキーフライドチキンの牧場で休憩。海と牧場を見下ろしながらお弁当を食べました。
今金でライブをするのは2年ぶりの2度目です。サウンドアレイは鈴木さんという歯医者さんの自宅の地下のライブハウス、設備はととのっています。
それは鈴木さんも楽器を弾く人だからです。今回はお寺の阿知波さんは不在でしたが、代わりに新婚の三上さん夫妻ががんばってくれました。二人は2年前のぼくのライブで知り合ったそうです。今金は女の人たちが元気な町です。人もたくさん来てくれました。
コンサートの後は持ち寄りの打ち上げで、夜中になっても誰も帰りません。
ぼくが眠った後も、歌声は夜空まで響いていたそうです。
友部正人
6月7日(土) 函館ライブ
函館のカフェやまじょうで6時からと8時からの2回ライブでした。
店がとてもせまいからですが、6時からの回にはあまり人が集まらず、8時からの一回だけでもよかったかもしれません。
やまじょうはぼくの古い友だちの太田さんが2年ぐらい前にはじめたお店です。
呉服屋さんだったころの屋号だそうです。やまじょうは函館の観光地元町にあります。
店の前をひっきりなしに観光客が行きかいます。すぐとなりにカールレイモンのソーセージ屋があるからです。
2年前に太田さんが結婚するとき、「ハート型の水たまり」という歌を作りました。
長男が生まれるとき、「一歩くんにしたら」とぼくが言うと、彼は気に入ってくれて太田一歩とつけました。音楽が大好きな彼ですが、最近は函館を舞台にした
映画の撮影のお手伝いに忙しいようです。
友部正人
6月9日(月) 青森五拾壱番館ギャラリーライブ
青森の五拾壱番館ギャラリーでライブをしました。
大船さん夫妻は青森で10年近くぼくのライブの主催をしてくれています。
大船滝二さんは青森の劇団に所属する役者さんです。ぼくは一度だけ彼のお芝居を見たことがあります。役者さんというのは、ふだんから役者っぽいところがあります。そうやっていろんな人と話しながら練習しているのかもしれません。
今夜は1時間半で30年分を歌うというコンサートでした。6分の曲も3分に凝縮させたような濃い1時間半でした。入場者数は主催者の予想を超えていました。
はじめての人が多そうなのもぼくには刺激的でした。
壁にぼくのいろんな時代のアルバムのポスターをはって、30周年を記念するライブを盛り上げてくれました。こんなポスター忘れていたな、というような古いものまで展示しました。そのときどきの顔をしているポスターの方が、30年という年月を
感じられたかもしれません。
友部正人
6月15日(日) おおたか静流さんとコンサート
織田学園のグリーンホールという会場で、おおたか静流さんとのコンサートがありました。開演が午後2時だったので、会場入りしたのは午前10時半です。こんなのはめずらしいです。
おおたかさんとのライブとなると雨が心配になります。おおたかさんは強力な雨女だからです。雨が降ったら「雨の日セット」というのがぼくたちの合言葉です。
雨にちなんだ歌をおおたかさんが歌い、その歌をバックにぼくが雨にちなんだ詩を読むのです。これをやりたいから、本当は雨が降った方がうれしいのですが。
今日のコンサートは知的障害者の施設やデイケアの団体の主催でした。
障害者たちはみんなおおたかさんの遊び歌に大喜びでした。ぼくもけっこう歓迎されてたみたいでうれしかった。それから主催者の予想を大幅に上回る入場者数でした。自然に盛り上がるよね。
友部正人
6月17日(火) 福岡カフェ・リブロで朗読会
福岡の岩田屋というデパートの中の本屋にあるカフェで、はじめて一人で朗読だけのライブをしました。カフェ・リブロは7階にあって、ガラス張りのとても見晴らしのいい喫茶店です。
朗読ライブは夜7時から始まりました。40人ぐらいの人で店内は満員でした。
とにかく「すばらしいさよなら」から読みはじめたのです。歌うのとちがって朗読には区切りがありません。最初はいちいち拍手をしてくれたお客さんたちも、途中からただ聞き入っています。「夜中の鳩」を読み終えて、現代詩手帖の4月号の中の詩を読もうとしたら、突然店内の電気が消えてしまいました。8時になると自動的に消える仕組みになっていたのだそうです。でも途中でやめるわけにはいかず、外からの街の灯りを頼りに読み終えました。予定は40分だったので、だいぶ超えていたみたいです。
でもその後詩集を販売したりサインをしたり、特にせかされたわけではありません。
「ふだん歌で聞いていた詩を朗読で聞くのがおもしろかった」という感想がありました。
なるほどね。「朗読は口をたくさん動かさなくてはならず、意外にくたびれました」というのがぼくの感想です。
友部正人
6月18日(水) 博多百年蔵ライブ
台風が接近する中、博多百年蔵での1年4ヶ月ぶり2回目のライブでした。かなり激しく降っていたのに、ライブの開演間際にぴたりと止みました。雨はそのまま翌日まで降りませんでした。
百年蔵は元酒蔵です。今でもうっすらとお酒の匂いが漂っています。はじめは自分が酒臭いのかと勘違いしそうでした。今夜は新しいギブソンの音をマイクとラインで拾ってもらいました。ラインではまだ演奏してみたことがなかったので試したかったのです。
合格でした。生音を聞いて「音がまだ若いなあ」と言っていた人も、後で「やっぱりよかった」と新しいギターをほめてくれました。今日はギターをほめられに来たみたいです。
昨日リブロで朗読をたくさんしたので、今夜はずっと演奏だけでいきました。
1月の鎌倉芸術館以来、「公園のD51」をよく歌っています。言葉がメロディにおさまらないところが歌っていておもしろい。
アンコールで1編だけ朗読をして、その後リクエストに答えて2曲古い歌を演奏しました。
休憩なしで、2時間を越えるライブになりました。今夜は演奏の途中にトイレに立つ人が多かった。ぼくも何度もトイレに行きたくなりました。おそらく雨で濡れて寒かったからでしょう。
トイレでも歌が聞こえているかな、と思いながら歌っていました。
友部正人
6月19日(木) 台風の日のドライブ
朝から強風と雨、テレビをつけてみると、台風が長崎に接近しているらしい。
11月に福岡の能楽殿でぼくのコンサートをしてくれることになった田中くんから、JRが不通になっていますと連絡がありました。それで田中くんたちが予約していたレンタカーに同乗させてもらい、山口まで一緒に行くことになりました。
田中くんたちはもともとから山口のライブを聞きに来る予定だったのです。
福岡を出発したのはお昼前ぐらい。台風が日本海に抜けようとしていた時間らしいです。
関門橋では強風で横転した車があったそうですが、軽自動車でもぼくたちの車は大丈夫。
4人も乗っていたからです。
約2年ぶりの山口ラグのライブでした。ライブの後、象牙のギター用ブリッジを見せてくれる人がいました。時間をかけて手で削るそうです。細工をする前の象牙も見せてくれました。ぼくの新しいギブソンのナットの刻みが深すぎて、3弦がフレットにさわるのでなおしたいと思っていたので、その方にナットを象牙で作ってもらうことにしました。
あまりよく知らない人に任せるのは普通なら不安なのですが、ライブを聞きに来てくれた中原中也記念館の方も自分のマーチンやギブソンのナットとブリッジを象牙に交換してとてもよくなったということを聞いたので、お任せすることにしました。
ニューヨークから戻るころには完成しているはずです。とても楽しみです。
友部正人
6月20日(金) 旅の途中の田舎町
ホテルをチェックアウトして、そこからすぐ近くの中原中也記念館にいきました。ハーモニカ奏者の伊東拾朗さんの企画展をやっているからです。中原中也記念館に来るのは2回目です。前に来たときのことはエッセイ集「耳をすます旅人」に書いてあります。
伊東拾朗さんのことはぼくは今まで知りませんでした。ジァンジァンなどで、福島泰樹さんやロケット・マツと共演したこともあるみたいです。会場では小さくスピーカーから伊東さんのハーモニカが流れていました。
ぼくはあんなにたくさんのキーの複音式ハーモニカを見たことがありませんでした。
ヤマハやトンボといった日本のメイカーばかりです。今でもあるかどうかはわかりませんが、半音のキーまで全部あるのです。おまけにバスとかアルトとか、パートにも分かれているので、ものすごくたくさんのハーモニカがありました。ハーモニカを夢中になって見ていたら、いつのまにか職員の中原さんがそばに来て、「伊東さんは自分の演奏をカセットテープに録音して、何回も聞きなおしては練習していたそうです。」とおっしゃってました。壁にかけてあった伊東さんの部屋の写真には、マイクとマイクスタンドが写っていました。複音式のハーモニカのやわらかい音色には、少し前の時代の芸術のかおりがします。
その中原さんにご自分のギターを見せてもらいました。ブリッジとナットを象牙に取り替えたマーチンとギブソンです。マーチンはぼくの憧れのトリプル・オータイプ。ギブソンはJなんとかというのだと思います。中原中也記念館にはギターやCDなど音のするものがたくさんあって、文学記念館ではないみたいな部分がおもしろかったです。
台風の翌日で空は真っ青、小郡のふしの屋という蕎麦屋さんで蕎麦を食べてから帰りました。ふしの屋さんは詩人でもあります。厨房から出てきてそば粉だらけの手で握手してくれました。時間が止まったような田舎町で、ふしの屋だけ活気があるのが妙でした。つげ義春の漫画みたいな、人気のない駅前通りでした。
友部正人
6月25日(水) ノラ・ジョーンズ
さりげなくステージに現れて、ノラ・ジョーンズはオープニングアクトをつとめるジリアン・ウェルチ夫妻を紹介しました。ぼくとユミはそれをビーコンシアターの前から3番目の席で見ていました。
ギブソンのアコースティックギターをかかえたやせたジリアン・ウェルチと、小さなピックギターをかかえて繊細なコーラスをつけるすらりと背の高い旦那さん。
最初は戦前のカーターファミリーをリアルタイムで見ているような気がしました。いわゆるカントリーなのでしょうが、コード進行やメロディが現代的で、ぼくのそんな先入観はすぐに消えてしまいました。演奏に没頭する二人に見とれているうちに、40分はあっという間にすぎてしまいました。とても感じのいい人たちでした。
ノラ・ジョーンズは何もかもさりげないのです。バンドのメンバーもつわものぞろいなのに、とてもさりげなくしています。さりげなく進行していく演奏を、ぼくたちは前から3番目の席で聞いていました。いつのまにか、ゴージャスなリムジンで夜の街をドライブしているような気分を味わっていました。なめらかな声とはずむような演奏がそんな気分にさせたのでしょう。彼女の音楽は上等な乗り物のようでした。
2月のチケット発売日まで、ぼくはノラ・ジョーンズを聞いたことはなかったのです。
アパートのすぐ斜め前にある劇場でコンサートがあるというのを新聞で知って、聞いてみたくなったのです。ビーコンシアターで今迄いろんなコンサートを聞きました。1年中ニューヨークにいることができたら、もっともっとたくさん聞いたでしょう。でも前から3番目で聞いたことはありませんでした。やはりコンサートは前の方で聞くのがいいような気がしました。
途中でジリアン・ウェルチ夫妻も参加してタウンズ・ヴァン・ゼンツの歌を3人で合唱したり、ザ・バンドの「ベッシー・スミス」を演奏したり、ノラ・ジョーンズを知らなかったぼくにも親しみのもてるコンサートでした。
「私を置き去りにしたあなたを、別に恋しいとは思わないわ」と一曲だけ弾き語りで歌っていたように、さりげないところがとてもすてきなシンガーでした。
友部正人
6月26日(木) ニール・ヤングとクレイジーホース
ニール・ヤングとクレイジーホースといえば「Rust Never Sleeps」。
でも今夜のニール・ヤングは「Greendale」という劇音楽で始まりました。これは架空の町の架空のグリーン家の話です。ニール・ヤングが書いたはじめての物語。彼が3歳のころ、彼の父親がタイプライターで何かを書いているのに興味を持ち、自分もいつか何かを書こうと思ったのだそうです。57歳になってはじめて物語を書いたそうです。
25人ぐらいの役者が、ニール・ヤングが歌うストーリーを演じます。舞台の上にはグリーン家のポーチと監獄のセット。登場人物を歌で紹介していきます。役者のせりふは全部ニール・ヤングが歌います。
ニールヤングはステージで使うものを自分で作るということを聞いたことがあるのですが、今回はマイクスタンドがとてもおもしろかった。一番変わっていたのは、ハーモニカホルダーがマイクスタンドについているのです。そのほかに拡声器なんかもついていました。
最後はなんだかあいまいに終ってしまうストーリーなのですが、舞台としてはとてもよくできていたと思います。こんなことを考えていたんだなあ、と感心してしまいました。8月にCDとDVDになって発売されるようです。
アンコールでステージ背後のスクリーンに「Rust Never Sleeps」という言葉が出ると、瞬く間に場内(マディソン・スクエア・ガーデン)は興奮の渦と化しました。やはりニール・ヤングとクレイジーホースはこれなんだと思いました。ニール・ヤングも全身全霊をこめて演奏している感じがしてとてもよかったです。
オープニングでルシンダ・ウィリアムズが1時間近く歌ったのですが、ぼくの期待とはちがっていてちょっとがっかりしました。歌詞がもっとわかればいいのかも。
友部正人
6月28日(土) レナード・コーエンを歌う夕べ
ブルックリンのプロスペクトパークにある野外音楽堂で、「レナード・コーエンを歌う夕べ」という催しがありました。
出演者は、ルーファス・ウエインライト、マーサ・ウエインライトという姉弟、リンダ・トンプソン、テディ・トンプソンという親子、現在のレナード・コーエンのコーラスをつとめる二人の女性、ニック・ケイブ、マッガーリグル姉妹、ローリー・アンダースンといった人たちで、演奏をするバンドのメンバーにはマーク・リボーがいました。(プロデューサーはハル・ウィルナー。)
今年はカナダ誕生160周年にあたり、ニューヨークではカナダをテーマにしたコンサートがたくさん開かれるみたいです。今夜はその一環の催しでした。
日本ではほとんど注目されたことのないレナード・コーエンですが、カナダを代表する歌手、詩人です。男性としてもとても魅力のある人物と見られているようです。禅の修業を続けて、そちらの方でも「Jikan」という名前をもらうほどになったそうです。
本人のレナード・コーエンはついに登場しなかったのですが、彼がいままでに発表したたくさんの歌を堪能することができました。
ルーファス・ウエインライトの「チェルシー・ホテル」には感動しました。ニック・ケイブは「スザンヌ」などを歌いました。リンダ・トンプソンとテディ・トンプソンは来月日本をツアーしますが、ぼくたちは一足先に聞いてしまいました。磔磔の水島くんに「聞きにおいでよ」、と誘われていました。きれいな声で、歌にも気持ちがこもっていてとてもよかった。水島くん、リンダ・トンプソンはいいですよ。
レナード・コーエンの歌はすべて知っているつもりだったのに、知らない歌が何曲もあって、もう何年もきちんと聞いていなかったことがよくわかりました。ユミと友だちのメグと3人で帰りにリトルイタリーのケーキ屋さんにより、夜中の1時半ごろまでコーヒーを飲んだりしてアパートに帰ったら2時を過ぎていたのですが、レナード・コーエンの詩集を引っ張り出してわからなかった歌を確認しようとしたのでした。でも、すぐにそのまま眠ってしまったみたいでした。
友部正人
6月29日(日) ダニエル・ラノワとルーファス・ウエインライト
セントラルパークのサマーステージで、昨日のルーファス・ウエインライトやダニエル・ラノワのコンサートがありました。開演は午後3時から。昨日の今日なので起きるのがつらかった。2時半にサマーステージに行くと、昨日も一緒に行ったメグがもう来ていて、場所とりをしていてくれました。昨日も今日も無料の、カンパだけのコンサートです。
最初の2バンドが終るころ、直射日光と暑さのせいで頭がくらくらになっていました。
ビールを飲んでも汗になるだけ。後ろの方の木陰に行けばいいものを、なんとかステージ前の炎天下でがんばります。
ダニエル・ラノワもカナダの人だったのですね。コーラスの女性とニューオーリンズの黒人ベーシスト。一曲だけドラムも入りました。北と南に別れているのに、カナダとニューオーリンズはとても関係が深い間柄だそうです。トロントのはずれで生まれ育ったダニエルは、フランス語と英語を話す子供だった。フランス語と英語のまじった歌を歌いました。アメリカの隣の国なのに、今日出演したバンドを聞くと、カナダはとてもヨーロッパっぽい。カナダのシンボルマークはかえでの葉っぱだし、とてもやさしい感じがします。
ニューオーリンズのあるルイジアナ州は、19世紀のはじめころはたてに長く、北はカナダの国境に面していたそうです。ルイジアナ州が発行している25セント硬貨にはそのころの地図が載っています。
さてルーファス・ウエインライトですが、昨日からぼくもユミもメグも大ファンになってしまいました。今日は酔っ払っていたのか歌詞やピアノをよく間違えたけど、声はいいし、音楽も独特でおもしろい。それにいつもへにゃへにゃしているのがかわいらしい。この日フィフス・アベニューでは5時間以上にわたってゲイパレードがあったそうですが、その帰りらしいカップルが、ゲイパレードの旗を振りながらルーファスに声援を送っていました。
昨日の「レナード・コーエン・・・」にも出ていた姉や、テディ・トンプソンもバンドに加わって、ルーファスの歌を一緒にコーラスしていました。
それになんとかマルダーという女性も加わって、二世ミュージシャンたちがせいぞろいでした。
友部正人
6月30日(月) Humiditier
リクエストタイムズの最新号に書いたDampitというギター用加湿器は、ギブソンではHumiditierというそうです。ぼくのギブソンについていたのはそれでした。解説書によれば、Humiditierにはサウンドホールにつけるキャップがついてなくてはならないのに、
ぼくのギブソンにはなかったので、ギブソンを買ったスタテンアイランドのマンドリンブラザーズにFaxで問い合わせたら、今はHumiditierにはキャップがついていないと返事がきました。
理由はわからないそうですが、あるときからキャップをやめてしまったそうです。
おそらく、何か事故があったのではないかと書いてありました。
というわけでぼくのHumiditier騒動は一件落着です。
友部正人
7月6日(日) ワイルドマグノリアス
暑い日が続いています。こんなにクーラーをつけっ放しにするのはニューヨークでははじめてです。窓を開けても暑い空気が入ってくるだけ。
夜になるのを待って、タイムズスクエアーにあるB.B.KINGのクラブまで二人でブラブラと歩いて行きました。途中で薬屋に寄ったり、貸しビデオ屋に寄ったり、ランダムハウスという大きな出版社の入り口にある巨大な本棚に並んだ無数の本を見学したりしてたら、8時からのライブなのに着いたらもう9時をまわっていました。
今夜はニューオーリンズのワイルドマグノリアスというバンドを聞きに行ったのです。
でももう終りかけていて、入場料も取られませんでした。
ワイルドマグノリアスでギターを弾いている山岸潤司に会えるかなと思ったのですが、彼は来ていませんでした。ギターは東洋人でしたが。
帰ってから山岸の自宅に電話をしてみたら、カリフォルニアにでかけているというメッセージがありました。もう一つのパパグロウズファンクというバンドで行っているのかもしれません。もしかしたらもう、ワイルドマグノリアスはやっていないのかなあ。でも、ニューオーリンズまで行かなくてもワイルドマグノリアスが聞けてうれしかったです。少しだけでしたが。
友部正人
7月4(金) メイシーズの花火
7月4日はアメリカの独立記念日で、メイシーズというデパートがイーストリバーで花火を打ち上げる日です。ブルックリン橋の北に4隻、南に2隻の平船を川に浮かべ、その上から一斉に打ち上げるのです。
ぼくたちはまだ一度もこの花火をちゃんと見たことがなかったので、今年は意を決して行くことにしました。当然ものすごい人出が予想されるからです。
バッテリーパークでロックのフリーコンサートを見た後、地下鉄でブルックリンに渡り、ブルックリンハイツのプロムナードからマンハッタンの夜景を背景に花火を見ることにしました。すぐ目の前に2隻の平船が待機していました。
開始予定時間の9時半をすぎても始まりません。待っているうちに、マンハッタンの向こう側のニュージャージーで花火がはじまりました。ポンポンと遠くに上がる花火を見ながら、「おいおい、メイシーズは何をやっているのかな」などとみんな話しています。でも、20分
遅れて始まりました。待ちに待っただけあってものすごい歓声です。まるでスポーツのゲームを応援しているみたい。花火は25分で終了しました。6隻の船から合計12万発の花火が打ち上げられたそうです。1隻2万発。1分間に800発です。間近で打ち上げられる花火は戦争に似ています。ぼくたちのすぐ後ろの赤ちゃんも泣いていました。ものすごい音なのです。日本では見たことのない花火もありました。だけどだいたいは日本と同じです。
なのになぜか単調な気がしました。
地下鉄の駅の横の食料品屋でジュースを買うとき、ぼくの前に並んでた女性の1リットルのミネラルウオーターが、まだお金を払う前にもう半分に減っていました。それぐらい暑い夜でした。
友部正人
7月8日(火) パティ・スミス
カンカン照りの暑いニューヨーク、夕方7時からバッテリーパークシティのワールドファイナンシャルセンターの前でパティ・スミスのフリーコンサートがありました。
ロックミュージシャンとしてのパティ・スミスを見るのは久しぶりです。最近は朗読がメインの詩人としてのパティ・スミスが多かったから。しかも今日の選曲はデビュー当時のものが中心でした。1970年代初期の代表曲を今のニューヨークで生で聞けるとは
思っていなかったので、ぼくにとっては特別なパティ・スミスのコンサートになりました。
彼女の声もバンドの演奏も以前レコードで聞いたままです。70年代のニューヨークと30年後のニューヨークがぴったり背中合わせになったみたいです。初々しいパティ・スミスと成長した現在のパティ・スミスを同時に見ているようでした。ファーストアルバムの中の曲はほとんどやったのではないでしょうか。ハドソン川のほとりのコンサートだったので、「ピッシング・バイ・ザ・リバー」なんてぴったりでした。口に含んだ水を足元に吐き出したりして、いたずらを見られた少年のようでした。「25階」という曲も、コンサートをした場所が元のワールド・トレード・センターのすぐ横だったので、何か関係がありそうな感じがしました。パティ・スミスの30年前の歌は、現在を語っているようなところがあります。
スモーキー・ロビンソンのカバーの後に、自分の歌が街中のラジオから流れていた30年前のグリニッジビレッジの話をしました。まだお金がなくて、欲しいものが買えなくて、だけどニューヨークの通りを歩くことだけはただだったころ。自由をとてもよく表現していたと思います。そして大ヒット曲「ビコーズ・ザ・ナイト」を歌ったのです。
明日から日本ツアーだというパティ・スミスは、「ジョージ・ブッシュなんて恐れるな」と叫んで「グローリア」を歌い、コンサートをしめくくりました。双眼鏡を持っていって、ずっと彼女の顔を見ていたのですが、表情がくるくると変わるので、つい最後まで見とれていました。
うんざりするぐらい暑い夕方の野外コンサートでしたが、なぜか気持ちだけは涼しくなったのです。
友部正人
7月9日(水) ランブリング・ジャック・とガイ・クラーク
パティ・スミスのフリーコンサートがあったバッテリーパークシティの北端にあるロックフェラーパークで、ランブリング・ジャック・エリオットとガイ・クラークのフリーコンサートがありました。この夏、ダウンタウンでは「ハドソン・リバー・フェスティバル」が開かれていて、このコンサートもその一環です。このコンサートに出る人は、水や環境について一言言わなくてはならないみたいですね。今日のランブリング・ジャックやガイ・クラークも、ハドソン川の美しさをしきりにたたえていました。
まずはジャック・エリオットが「サンフランシスコ湾ブルース」を歌って、コンサートの幕を開けました。おそらくステージからは、客の頭越しに見たハドソン川がさぞかし美しかったのでしょう。客席からは、ステージの上のかなり年老いたジャックしか見えなかったのですが。そうです、この2年の間に、かなりジャックは年をとりました。奥さんのジャニスを病気でなくしたからでしょうか。でも演奏は相変わらず豪快で、声もよく通っています。
自由きままに歌や演奏を楽しんでいました。
背がだいぶちぢんだような気がするのですが、しょうがないかな。
「かっこう」「バッファロースキナー」「プリティボーイフロイド」とおなじみの曲が続きます。
でもジャックの歌は新しい歌のようにどれも生き生きしています。客席の男性から、グーグーの話をリクエストされて、このときばかりは立ち上がって、思い出しながら話してくれました。グーグーというのは、アパートの大家さんの子供を食べちゃうような架空の生き物です。40年も前にジャックがこしらえたらしいホラ話のために、曲目が極端に少なくなってしまいました。大雪のときに山小屋に閉じ込められて、たまたまそこにあった
たった1枚きりのレコード、ボブ・ディランの「フリーホィーリン」を繰り返し聞いて覚えてしまったといって、「ドントシンクトゥワイス」を歌ってコンサートを締めくくりました。
いかつい大男のイメージのガイ・クラークは、小柄なギターの人と二人であまり話をはさまず、たんたんと歌ってくれました。その中には、宝物のように「L.A.フリーウェイ」や「デスペラド」が混じっていたのです。
コンサートが終って、ステージの裏にいたジャックに話しかけると、懐かしそうに抱擁してくれました。「奥さんは元気なの」と聞くので、「今も来ているよ」とぼくはユミの方を指さしました。サイン目当ての長蛇の列を尻目に、横からユミが「ハーイ!ジャック」と声をかけると、うれしそうにガイ・クラークに「友部の嫁さんだよ」と紹介していました。
昨日とはうって変わって肌寒いハドソン川のほとりの、暖かいコンサートでした。
友部正人
7月10日(木) ニューヨークフィル
今回ぼくたちは毎日のようにコンサートに行っていますが、聞きたいものがこんなに続くのもめずらしいことです。そしてほとんどがフリーコンサートだということも。
さて締めくくりとして、今夜はセントラルパークのニューヨークフィルの野外コンサートに行きました。東京から佐藤さん夫妻も来ていたので、その二人も誘って四人で行くことにしました。昨日から天気が悪く、今日もお昼ごろから激しい雨が降っていたのですが、夕方には止みました。電話で問い合わせてみるとスケジュールは変更なしとのこと。さっそく隣のマーケットに買出しです。
野外コンサートの楽しみは、芝生の上での食事とワイン。敷物を敷いてその上に靴をぬいで座るとてもいい気持ちです。広い会場のあちこちにスピーカーがたっています。5万人以上の人が聞きに来るのです。一匹、蛍も紛れ込んで聞きに来ていましたが。
今夜のレパートリーは歌物中心です。作曲家の名前もバーンスタイン以外はよくわかりませんでした。ぼくは白ワインを飲みすぎてしまったみたいで、あまりよく聞いていませんでした。ぼうっとしていたのです。
帰りにカフェ・ラロでコーヒーを飲んで、やっとしゃっきりした感じ。
友部正人
7月17日(木) 田辺マモル
12日に横浜に戻ってきました。今回のニューヨーク滞在中も含めて、「あれからどのくらい」のジャケット製作はずっと進行中です。
7月23日「言葉の森で」のゲストの田辺マモルくんと、子安のガンボスタジオでリハーサルをしました。二人の共作についてはすでにニューヨークと日本でメールでやりとりしていたので、今日はそれを実際に演奏してみてどうなるか、という日でした。
田辺くんは作ったメロディをメールにはりつけて送ってくれたのです。メールで音を送ってもらうのははじめてだったので、何回も聞きなおしてしまいました。とても新鮮だったので。
田辺くんとぼくとは、年が15歳ぐらいはなれているのです。「帰ってきたヨッパライ」がヒットしたとき、彼はまだ1歳だったそうです。そんな年下の彼がぼくの歌をはじめて聞いたのは「カンテグランデ」のアルバムだった。だからその中の曲に愛着があるみたいです。
ぼくが田辺くんを聞いたのはまだ4、5年前のことです。「ヤングアメリカン」というアルバムが出たころでした。それ以降の彼のアルバムは、たぶん全部聞いていると思います。彼の歌には1曲ずつ微妙な差異があって、そこがとても彼らしいおもしろいところだと思うのです。だから全部ちゃんと聞かないと、何を思っている人なのかわかりにくいかもしれない。
そこら辺のことは、最新号の現代詩手帖に連載しているぼくの「ジュークボックスに住む詩人」に取り上げていますから、ぜひ読んでください。店頭にあるのは7月25日ぐらいまでだと思います。
今日の練習は二人の共作を実際に合わせてみるのと、お互いの曲を一緒演奏してみたりしました。内容は当日のお楽しみです。当日はいきなり、ぼくの聞きたい曲をリクエストしたりしてみようかな。
友部正人
7月18日(金) 耳よりな情報
予定だと今日は京都の磔磔でリンダ・トンプソンを聞いているはずでした。彼女の声が突然出なくなって全公演が中止になったというので、京都へ行くのはやめて、今日は横浜のサムズアップの「バカッパレ祭り」というイベントを聞きに行きました。
久しぶりに元バンバンバールの安達くんのギターを聞きました。日本のマーク・リボーだね、と言ったら、「好きなんです」とまんざらでもなさそう。三重県の松阪のライブハウスマクサのオーナーの中山さんのえびすというバンドもはじめて生で聞きました。ユミが「ニコニコしながら歌う人ってめずらしいよね」と言っていました。とても健全な魂の歌声でしたよ。
中止になったリンダ・トンプソンですが、息子のテディ・トンプソンが代わりにフリーチャージで演奏してくれているそうです。ぼくとユミは今回のニューヨークで2回もテディくんを聞いたのですが、彼一人でも十分素晴らしいですよ。声もギターもとてもいいです。サムズアップにも来るようなので、ぼくたちも行こうと思っています。
それから、「27日の長野のライブにおいでよ」と前にユミが誘っていたマーガレットズロースが、本当に来るみたいです。楽しくなりそうです。
友部正人
7月19日(土) 大阪ロクソドンタ
大阪ロクソドンタで3回目のライブ。ロクソドンタは芝居小屋です。天王寺の駅の近くにあります。リーダーの中立さんは今、秋の公演のシナリオを書いている最中で、そんな忙しい中、今年もぼくのライブを開いてくれました。3回目ともなるとぼくもなれてきて、だいぶ様子もわかってきました。そのせいかライブもやりやすく、劇団の方たちも今年が一番リラックスしていてよかったと言ってくれました。今年は客席の形もちょっと円形劇場っぽくして、お客さんが少しでも楽に聞けるよう工夫していました。本番から打ち上げまで、とても細かく気を配ってくれます。
中立さんは食べることが好きで、料理もとても上手です。今夜の打ち上げの料理も中立さんの作品だそうです。特に今夜のつけ麺はすばらしい味でした。大阪にはまだつけ麺屋ってないんだそうですね。「つけ麺屋もやってはどうですか」とぼくが言うと、「そんな暇はとてもありません」ということでした。
友部正人
7月23日(水) 「言葉の森で」第4回目
吉祥寺スターパインズカフェで「言葉の森で」第4回目。今夜のゲストは田辺マモルさんでした。彼はリハーサルの時刻にギターを持って一人でふらりと現れました。荷物が少ないし、絶対に車ではなく電車で来たという感じ。そこがぼくには田辺くんらしく思えました。
今夜の「言葉の森で」では、田辺くんとの連歌を2曲発表しました。連歌って作るぼくたちは面白かったのですが、聞いた人はどうだったのでしょう。アンケートにはそのことは誰も書いてありませんでした。アンケートを読むと、今夜のコンサートはかなり好評だったようです。特に今まで田辺くんを知らなかった人たちが、田辺くんの新しいファンになったようなのでぼくもうれしかった。ぼくがどうして田辺くんをゲストにしたのかが通じたように思えるので。今日の「ハワイの詩」はすごくよかった。隠し事のない世界に生きることが物語を書くための大切な条件だということを思いました。
さて今日来てくれた人たちの何人が明日田辺くんのCDを買いにレコード屋に走るでしょうか。今までのゲストの人たちの歌の感想も聞かせてもらえたらぼくはうれしいです。そして次の「言葉の森で」を楽しみにしてくれたら。
友部正人
7月24日(木) リンダ&テディ・トンプソン
コンサートの翌日はなんとなく非活動的に一日を送ってしまいます。
ニュージャージーのディラン・フリークのジョーという友だちが送ってくれた、「ナチュラルボーンキラー」という映画の中のボブ・ディランの「You belong to me」という曲を聞いて、そのビデオを借りてきて見ました。すごく暴力的でむちゃくちゃだけど、反社会的でめずらしい映画だと思いました。レナード・コーエンやパティ・スミスの曲も使われていました。
レナード・コーエンといえば、6月27日にニューヨークはブルックリンのプロスペクトパークであった「レナード・コーエンを讃える」というような意味のコンサートにも出演していたテディ・トンプソンの歌を聞きに、横浜のサムズアップに行ってきました。本当は母親のリンダ・トンプソンのコンサートだったのですが、日本に来て突然声が出なくなって、代わりにテディくんがフリーチャージで歌うことになったようです。1時間ほど歌いましたが、ギターも歌もとてもきれいでした。悲しそうな歌が多かった。母親のリンダさんもずっと客席で見守っていました。
ユミはトイレでリンダさんと会って、ニューヨークのプロスペクトパークでリンダさんの歌を聞いたことや、その翌日のルーファス・ウエインライトのコンサートでテディくんを見たことなどを話したそうです。リンダさんはそのことがとてもうれしかったみたいで、今夜のコンサート終了後にテディくんにユミを紹介していました。もちろんぼくも一緒に紹介してもらいました。
サムズアップからの帰り道、人と話すことにもっと積極的になりたいと思うぼくでした。ユミを見習って。
友部正人
7月26日(土) 松本ライブ
松本のナジャというお店でライブでした。信州は今日から梅雨明けという感じの天気です。青空と乾燥した空気が湿った横浜から来たぼくたちをくるんでくれます。主催のたつのこ書店のかっぺいさんが打ったというそばを食べにクレッシェンドという喫茶店に行きました。有名なそば屋に負けないくらいおいしいそばでした。毎日10食分だけ打っているそうです。
ナジャは30人も入れば一杯のお店。ちょうどぎっしりになるくらいの数のお客さんが聞きに来てくれました。今夜は「また見つけたよ」の中の曲を最初に何曲かやりました。それから新しい曲もいくつか。床に座ったお客さんたち、体がきつくないかな、と心配しながらも2時間以上やってアンコール。久しぶりに「地球の一番はげた場所」と「少年とライオン」でした。
友部正人
7月27日(日) 長野ネオンホール
松本でメンタルクリニックを個人営業しているふあと、彼のバンドともだちのだいちゃんと、ぼくとユミの4人でふあの車で長野に行きました。長野のネオンホールです。
長野に着いたら、東京からマーガレットズロースたちも車で到着していました。ネオンホールのタマちゃんが新しくはじめたばかりの金斗雲でおいしいコーヒーを。畳なので横になりたくなります。広い畳ばかりの部屋が欲しいです。
金斗雲は古い民家を改造したお店です。本当に古かったので、お店にするまで大変だったようです。でも古さがそのまま残ってて、そこに宇宙から新しい人がやってきたという感じでとても気持ちがいい。気持ちよさってことについてついつい深く考えてしまいました。で結論は、そこがまだ自分の場所ではない、ということ。それが気持ちよさの原因のような気がしました。
今夜はまず店主の清水くんがベースを弾いているボスタブという4人編成のバンドがトップに演奏しました。ボーカルの女性はお寺に嫁いだそうです。清水くんと同じように首からカメラを下げていました。イラストレーターの清水くん、写真家の清水くん、ベーシストの清水くんと3人の清水くんを知ったのですが、ベーシストの清水くんは特に楽しそうでした。
今夜のぼくはほとんどの曲をマーガレットズロースと演奏しました。6月1日の新宿JAMのおさらいです。「ライク・ア・ローリングストーン」から「ぼくは君を探しに来たんだ」まで全8曲。ぼくの方がよりバンドになじんだという気がしました。
マーガレットズロースの演奏する「大阪へやってきた」はすごくよくなっていました。それから新曲がとても詩的ですてきでした。来月の横浜寿町フリーコンサートにも出演するそうです。楽しみです。ズロースとやるときは、最近買ったギブソンをギターアンプで鳴らしてみました。それが成功してたようです。かなり途中でハウっていましたが。9月のバンバンバザールのイベント(9/14)でまたズロースと一緒なので何かやりたいですね。
ネオンホールは今外に向かって拡大中です。文化のいろんな要素が終結して、期が熟しはじめたようです。これからますます期待できそうです。
友部正人
8月1日(金)独立国
札幌の永田さんのお宅でコンサートをしました。永田まさゆきさんは建築家です。奥さんの温子さんはヤギのチーズを作り、パンを焼きます。永田さんのお宅にはたくさんのヤギやウサギがいます。永田さんのお宅は札幌市の円山公園の少し裏の方にあります。トンネルを越えてすぐのところです。山全体が永田さんの借りている敷地で、蚊にさされながら歩いてみたのですが、かなり広いです。わくわくするような環境で暮らしています。
ぼくが永田さんのお宅で歌うのは2回目です。前回は1985年12月、「おじゃまコンサート札幌編」のときでした。そのときは風邪をひいていたのでのどがとても苦しかった。今回はそんな問題もなく、のびのびと歌うことができました。
将来はレストランになるそうですが、食堂兼ギャラリーでやりました。お客さんは60人ぐらい。いい感じでした。
永田さんご夫婦はだいぶ前に東京から今の場所に移りました。そのころはまだ何も完備されていなくて、たとえばまだ湯沸かし器もなく、真冬なのに真水で顔を洗った覚えがあります。永田さんたちはそうやって自然の中で20年以上暮らしてきたのです。今は巨大なパン焼き釜もできて、隣には新しい住居も建ち、独立国のような趣があります。いつか新住民をつのることがあれば、ぼくとユミも彼らの独立国に参加してみたいものです。
友部正人
8月2日(土)東川町写真フェスティバル
北海道の東川町は写真の町です。(家具の町でもあります。)ここで毎年国際的な写真のフェスティバルが開かれています。ぼくとユミは今日からこのフェスティバルに参加しています。午後1時半から公民館で「写真の星座」と題されたスライドショーがありました。ゲストの長野重一さんを加えると11人の写真家が参加しました。それにピアニストの板橋文夫さんが即興で伴奏をつけるのです。面白い企画でした。
ユミ(小野由美子)は3番目でした。タイトルは「左目散歩・2」です。30枚のスライドが大きな画面に映し出されていきます。とてもきれいでした。ぼくは自分の家で何回も見たはずなのに、写真の順序にストーリーを感じて新鮮でした。画面の大きさは案外重要なのかもしれません。
ニューヨークのビルの屋上にある木造の給水タンクばかりを撮った折原恵さんの写真もよかった。前にぼくは一度見ているのに、今回は画面が大きかったせいか、印象が全く違いました。男性の写真家は自然を撮っている人が多かったのが特徴でした。
公民館の前の広場では「どんとこい祭り」といって、東川町の夏祭りも開かれていて、東京から来ていたぼくらの友人の紹介で知り合いになったタカヤくんに誘われて、彼らのバンドと一緒にステージで「ぼくは君を探しに来たんだ」を歌いました。
祭りの最後に花火大会もあったので、広場には数千人もの人がいて、その人たちに大声で歌うのは気持ちが良かった。それから東川町の花火はすばらしかったです。すぐ横の空き地で打ち上げられているので迫力があったし、空からは破片が落ちてくるし、何よりも花火がすばらしかった。アメリカの独立記念日のメイシーズの花火よりも。
8月3日(日)東川町写真フェスティバ2
旭岳温泉に泊まっています。旭岳は北海道で一番高い山だそうですが、温泉は標高1000メートルより下にあります。朝走っていたら、写真家の比嘉さんとすれちがいました。彼もニューヨークに住んでいて、ニューヨークシティマラソンを走っているそうです。今度ニューヨークで会う約束をしました。
お風呂で東川賞を受賞した斎藤さんに会いました。ぼくが持参のオリーブ石鹸を使っていたら、「最近はどこへ行ってもボディシャンプーですね」と言っていました。
ぼくの今日の仕事は東川賞を受賞した四人の方たちのためのフォーラムのパネル(発言者)でした。こんなことしたことがなかったので、全く予測つかないままの突入でした。でも他のパネルの方たちと一緒にいると、なんとなく話したいことが浮かんでくるものです。人間の頭って不思議だなとおもいました。
吉田ルイ子さん、糸崎公朗さん、齋藤亮一さんと進んでいって、はたと困ったのは南アフリカ共和国のガイ・ティリムさんのときです。アフリカの内戦を撮っている報道カメラマンなのですが、写真があまりにもさっぱりとしていて、何も言うことが思い浮かばないのです。これはとても不思議なのですが、一人の作家の思考を経て生まれてきた写真は、その作家の良識と美意識によって選別されてしまうので、ぼくはその作家の目と心の虜になるしかないのです。その場合、ガイさんの作品は完成度が高いので逆に「ふーん」と思うしかなくなってしまいます。その「ふーん」をぼくは言葉にできなくて困りました。
終了後「銀の汽笛」を朗読して、「遠来」を歌いました。自分ではいい選曲だと思いました。ホテルでの夕食のとき、ガイさんから「遠来」のコードを教えてと頼まれました。ぼくはガイさんと友だちになりました。彼はぼくより12歳年下です。パリに住んでいるそうです。今度はコンゴに行くと言っていました。東川の後、一人で日本を南下して、仙台にも立ち寄るというので、もう一度8月8日に仙台の文学館で会う約束をして別れました。
友部正人
8月4日(月) 帯広キッチンノートライブ
なかなかスリリングだった東川での2日間をくぐりぬけ、ぼくとユミは旭川からバスで帯広へ。快晴の空の下、層雲峡経由3時間半の旅です。
ぼくの前の席には一人旅の小学生の男の子。ぼくも小学1年生のころ札幌から夕張まで国鉄で1人旅したことがあって、男の子に自分を重ねようとしたのですが、男の子には一人旅の緊張感がまるでありません。運転手に「すみません、ちょっとコンビニで止まってくれませんか」とたずねています。「それはできないんですよ」とていねいに断られていました。(途中はお店らしいお店のない山道でしたが)
今日のライブは池田町のパンクなお坊さん、長井見(みゆる)くんが主催です。彼は大学時代に京都でパンクバンドをやっていて、ブルーハーツにみとめられたこともあるそうです。今はアコースティックギターでソロで活動しています。きめこまかな詩がとてもよくて、歌も聞きごたえがあります。お坊さんというよりはやはり歌手です。
会場は帯広郊外の丘の上の自然食レストラン「キッチンノート」。広々とした畑に囲まれていて、畑より上には空があるだけの場所。
リハーサルをしていると、東川町から友だちがかけつけてくれました。岡崎くん、熊さんのカップルと、タンさん、ジェイムズのカップル。タンさんはベトナム人ですが、生まれ育ったのはカナダで、ジェイムズはオーストラリア人です。二人は札幌で出会ったそうです。二日後にカナダへ帰って、タンさんはジェイムズと結婚するそうです。日本の最後の思い出に、帯広まで歌を聞きに来てくれたのです。
コンサートにはずいぶん昔のぼくのファンも来てくれました。10年ぶり、20年ぶりという人たちがまた来てくれるのはうれしいものです。そんなとき、ぼくはずっと歌ってきたんだなあ、と思います。
友部正人
8月7,8日(金) 仙台文学館
バラ園の町、山形県村山市にはぼくの歌を昔聞いてたという人たちがたくさんいました。みんな40歳代後半の年齢の人たちでした。たぶん一夜だけ、みんな10代に逆戻りしたにちがいありません。ライブの後は仙台に向かいました。仙台でユミと落ち合い、ライブの主催者の板垣さん夫妻と4人でオリジナルラヴの田島くんたちが打ち上げをしている店に行きました。オリジナルラヴ、スチャダラパー、東京スカパラダイスというメンバーでライブがあってその打ち上げに誘われていたので。スチャダラパーの人とは初めて話をしました。ぼくは彼らのCDは2枚聞いたことがあります。ヒップホップについての一般的な質問ばかりしたので、次回はもっと別の話をしたいです。田島くんはけっこう楽しそうに飲んでいて、8日の仙台文学館でのぼくのライブにも帰りの列車を変更して聞きに来てくれました。
8日は仙台文学館でライブをしました。平日の午後2時からだったのに、120人も聞きに来てくれました。仙台文学館でのライブの話は何年も前からあって、それがやっと実現したという感じです。構想何年・・・というやつです。文学館の館員や学芸員の方たちがみんなとても熱心なのでうれしかったです。また館内のレストランの職員もライブを聞いてくれて、CDまで買ってくれました。ここの冷やし中華はなかなかおいしかった。冷やし中華と回転寿司は仙台の発明だそうです。
今日のライブには田島くんの他に、南アフリカ共和国の写真家、ガイ・ティリムさんも聞きに来てくれました。北海道から東京への旅の途中に寄ってくれたのです。
仙台文学館には以前「尾形亀之助展」を見に来たことがあります。控え室の廊下にそのときのポスターが貼ってあって、やはりとてもかっこよかった。コールテンのズボンをはいて少しうつむき加減、昭和の初めごろの人とはとても思えません。
コンサートの後は古本カフェの火星の庭に集まってもらい、ティリムさんや田島くんも一緒に村山でいただいたスイカを食べたりコーヒーを飲んだりしました。前回ここに来たときに欲しいと思ったCDがまだあったのでそれをぼくは買いました。ユミは猫の本を買っていました。
ティリムさんは彼が小学生のときに初めて図書館で読んだという詩画集を見つけて買っていました。とても懐かしそうでした。火星の庭は結構洋書の絵本も充実しています。みんな欲しい本が見つかったのに、田島くんは残念ながら探している本を見つけられませんでした。
火星の庭の夫婦には赤ん坊が生まれ、しばらく抱かせてもらいました。軽くて小さいのにとても存在感がありました。女の子です。
夜の新幹線で東京にもどるのはとてもだるいけど、なんとかがんばって帰りました。疲れていたのか、ぼくもユミも爆睡しました。
友部正人
8月14日(木) 雨のフリーコンサート
土砂降りの雨の中、田口犬男くんと田辺マモルくんを誘って、ユミと寿町のフリーコンサートへ。やはり雨なので今年は人が少ない。
トンビというレゲエのバンドの後マーガレットズロースが登場。司会者から去年の激しい演奏ぶりをほめられていました。期待されてやると失敗することもあるけど、彼らの場合はだいじょうぶ。自分たちの曲に自信を持っているようです。後でボーカルの平井くんからモニターがよく聞こえなかったと聞いたのですが、ぼくには彼らがとても慎重に演奏しているように見えました。同じ曲でも前に聞いたときよりいい曲に聞こえたのは彼らが前よりうまくなって、曲の個性を伝えられるようになったからかもしれません。
マーガレットズロースの後、寿をしばらく聞いて、それから4人で中華街へご飯を食べに行きました。傘はさしていたのにずぶ濡れで、冷えてとても寒かった。傘もささずに濡れて聞いていた人たちはもっと寒かったでしょう。
中華街に2時間ぐらいいて、横浜球場の前で田口くんと田辺くんと別れました。そしたらバンバンバザールの福島くんから電話が入って、近くにいるというので彼の車で家まで送ってもらいました。
友部正人
8月15日(金) 葉山
夕方5時から葉山へ。今夜は大塚まさじのさよなら会でした。彼は大阪に引っ越します。葉山にはどれぐらいいたのでしょう。たぶん月という名の男の子が生まれて高校生になるまでぐらい。そういえばもうずいぶん長い間月には会ってませんが。
大阪にはまさじ一人で引っ越すようです。奥さんと息子は葉山に残ります。そんなさよなら会でした。会場のレストランには葉山からと東京からと、それからぼくとまさじが2年続けてライブをした追浜の「どんすぃんくとぅわいす」から合計30人ぐらい集まりました。
赤ワインとパスタ、その他いろんなおいしい料理でお腹は満腹になりました。まさじとぼくが少しずつ歌い、知らない間に夜もふけて、東京から来た沢田としき夫妻やまさじのギターリストてっちゃんたちと、変な会だったね、楽しかったけど、といいながらてっちゃんの車で帰りました。
友部正人
8月17日(日)伊豆高原
伊豆高原にある池田二十世紀美術館で、6月から開かれている「田島征三ぜんぶ展覧会」でおおたか静流さんとライブをしました。
田島さんは伊豆に移ってから、木の実やくりのイガなどで作品を製作しています。その迫力はとても絵の具では描き表せないぐらいです。木の実の生命が作品に異様さを与えています。飾りではない命を持った絵が並んでいました。まさに今の田島征三さんのすべてが展示されています。展覧会は8月31日までです。みなさん、ぜひ行きましょう。
3日前からの大雨で熱海から先の鉄道が不通になっていて、会場にたどり着くまでがたいへんでした。PAも東京からなので到着が遅れてしまい、開演も30分ぐらい遅れました。ぼくやおおたかさんの気持ちも落ち着かないままコンサートは始まってしまいました。
でもそんな天候の割にはお客さんもたくさん来てくれて、次第に歌と絵の世界にひたっていくのがわかりました。
東京とは全くちがって、伊豆の夜は真っ暗です。しかも雨降りなので黒光りして見えます。そんな伊豆の夜がものめずらしくて、田島さんのお宅での打ち上げでおいしいものをいっぱいご馳走になりながら、窓の外の暗闇から目を離せませんでした。
友部正人
8月25日(月) あれからどのくらい
21日に届いた「あれからどのくらい」のDISC1を聞きながら、羽田から横浜までのバスに乗る。22日に羽田までバスに乗ったときはDISC2を聞きました。自分で作った歌を自分だけで聞くのはぜいたくなことだと思います。
22日は倉敷の蟲文庫という古本屋で「夜の本屋」と題してコンサートをしました。本棚をどけて作ったスペースに40人ぐらいの人が入りました。椅子がたらなくて、ひもで束ねた文学全集も椅子として準備されました。これはあまりすわり心地がよくなかったみたいです。本はやっぱりすわるものではないのか。ぼくは店主がお客からお金を受け取る場所にすわって
歌いました。客席から見たぼくはお芝居のセットの中で歌っているようだったそうです。古いエアコン一台と二台の扇風機がよく働きました。ぼくはエアコンの真下にいたのにまだ暑くて、途中から一台の扇風機を独占して使いました。ちょっと寄席のような雰囲気もあって、比較的たくさん喋りました。
23日は倉吉の近くのハワイ温泉というところにある公園で「おかまいなしカーニバル」という野外コンサート。4回目ですが、残念ながらもう今年で最後になるようです。ぼくは夜8時半ごろから一人で1時間ぐらい歌いました。時間の制約はないからと主催者にいわれていたので、この日歌いたいと思った歌を全部歌いました。最後にアンコールで知久くんと「ふあ先生」をやりました。芝生の向こうに夜の東郷湖があって、湖面がゆれるのを眺めながら歌いました。とてもいい場所です。
24日は岡山県勝山町でのコンサート。TEA(てあ)というレストランです。勝山は倉吉から車で1時間ぐらいの山の中の城下町。車でいくつも山を越えて行くと、隠れ里にたどり着いたような感じでした。家々の軒下ではのれんが趣を競い合っていました。商店の入り口にも普通の民家の入り口にものれんが下がっていました。100ぐらいあるそうです。
勝山のようなはじめての町では、様子がつかめないので最初のうちは少し緊張します。途中に休憩を入れるのがコツだとわかりました。2部にはもうはじめての町ではなくなっているからです。たった10分の休憩でも、1年ぶりにまた歌いに来たという感じのなつかしさがある。
東京にいても日本は見えないのかもしれないな、と勝山では思いました。
どこでもない場所が東京なら、ニューヨークもきっとそういう場所なので、勝山のような場所が必要かもな、とも思いました。ぼくもユミもこの小さな町が気に入ったのです。
ツアーから飛行機で羽田に着くのなら夕方がいいと思います。仕事が終って後はビールを飲むだけ、という雰囲気になれるから。出張から戻ったサラリーマンの感じをちょっとだけ。それでバスの中で自分の「あれからどのくらい」を聞いたのです。自分の歌が動いているのを
景色の中に見ながら。なかなかいいなって、自分で日暮れの空に書いてみました。
友部正人
8月26日(火) 近況報告
思潮社から現代詩手帖9月号が届きました。4月号から毎月「新・ジュークボックスに住む詩人」を連載しています。2ページぐらいの原稿です。今まで取り上げた歌は、
4月号 マービン・ゲイ「What's Going On」「I Want You」
5月号 スティーブ・グッドマン「シティ・オブ・ニューオーリンズ」
6月号 マーガレットズロース「紅茶の歌」「今夜のライブの話をしよう」
7月号 田辺マモル「僕を好きだった君が好きだった」「君はかんぺきさ」
8月号 どんと「橋の下」
9月号 ハイロウズ「アメリカ魂」「毛虫」
この連載は、毎回どんな歌を取り上げようか考えるのが楽しみです。
「雲遊天下」でも「補聴器と老眼鏡」という連載をしています。ゲストの方との対談が大半をしめるエッセイです。一つのことをやり続けながら年をとってきた方たちから話を聞いています。
28号 デイブ・ヴァン・ロンク
29号 谷川俊太郎
30号 工藤直子
31号 小室等
32号 永島慎二
33号 田島征三
34号 長本光男(この34号は9月1日発売です。)
「雲遊天下」のヴィレッジプレスから、同じ9月1日にぼくの新しいエッセイ集「ニューヨークの半熟卵」が出ます。「雲遊天下」に7年間連載した文章を一冊にまとめたものです。ぼくがニューヨークに行きはじめるころから、やっとなれてきたころまでを書いています。小野由美子の写真もたくさんあります。
北海道新聞の夕刊で毎月1回のペースで、「休みの日には」という短いエッセイを連載しています。これもニューヨークのことを書いています。今までの3回は、走ること、デイブ・ヴァン・ロンクのこと、夏のフリーコンサートのことについて書きました。これも写真は小野由美子。次回は9月13日の予定です。
9月1日は「あれからどのくらい」の発売日でもあります。ライブ盤シリーズもこれで4作目で、これが決定版かなという感じがします。これからしばらくは新作に専念したい気がします。でも長いあいだやっていると、誰でもライブ盤が多くなっていきますね。特にジャズの人はライブ盤で新作を発表したりする。そういうライブ盤だったらたくさんあってもいいかもね。
友部正人
8月29日(金) いよいよツアーのリハーサル
昨夜は横浜のサムズアップに、パスカルズのライブを聞きに行きました。
11月のヨーロッパ公演が一部構成なので、その練習のために休憩を入れないでやっていました。休憩なしでも本番中個人的に休憩してたりして、音楽以前に人間がパスカルズっぽい集団(15人)です。
そんなパスカルズと一緒に、アンコールで「長井さん」を歌いました。全然そんなつもりはなかったのに、誘われるとどうしても出てしまうぼくです。だいぶ前にやったことのある曲なのに譜面をまだみんな持っていて、パスカルズはものを捨てられない性格のバンドなんだなあと思いました。そういうところがぼくと合うのかもしれません。
「休みの日」からソロのライブばかり続きましたが、9月の「あれからどのくらい」の発売記念ツアーは小編成ながらもバンドでツアーをします。「長井さん」のように、ぼくの曲にはバンドでやった方が楽しい曲も多いのです。「あれからどのくらい」のDISC2はそういうバンドもので構成されています。CDでは7人で演奏しているDISC2の曲の雰囲気を、ロケット・マツと武川雅寛と横澤龍太郎(横浜だけ)で再現しなくてはなりません。そのリハーサルを明日します。
バンドでライブをするのは次の場所です。
9月2日 名古屋クアトロ
9月3日 大阪バナナホール
9月7日 横浜サムズアップ
9月13日 諏訪アクアクセロニアス
9月27日 盛岡LiRio
11月19日 福岡能楽殿(武川雅寛のみ)
明日のリハーサルの成果を聞きに来てください。
友部正人
9月4日(木) サーカスバンド
名古屋と大阪の2回のライブを終えて横浜に戻って来たところです。
夕方セミが鳴いているけど、名古屋や大阪に比べるとずいぶん涼しい横浜です。
9月1日に発売された2枚組CD「あれからどのくらい」に合わせてはじまったバンドツアー、全部で5箇所だけだから、約半分終了というところです。早い!なのにロケット・マツも武川くんも、まだ慣れていない、と言っています。慣れないまま5回が終わり、忘れないうちにまた新しいツアーができたらいいと思います。
バンドはぼくを含めて3人だけなのに、荷物を載せて引っ張るカートは4つ。マツも武川くんも楽器が多いのです。ひどくかさばる一団です。それでも、ユミを入れて4人の移動は、お喋りがあってなかなか楽しいです。人といると、この人とは何を喋ろうかなと考えるけど、考えたことは喋ってもおもしろくない。用意してあった会話なんておもしろくないのです。お喋りはひとりでに転がっていきます。自分の頭がそのお喋りについていくときの、赤ん坊みたいなハイハイがおもしろい。頭にとってお喋りはお母さんのようなもの。喋らない人はお母さんのいない子供のよう。
名古屋と大阪のアンケートの感想は、バンドがよかったという人がとても多かった。これはぼくにもうれしいことです。バンドでやって、ソロの方がいいと書かれるのはとてもつらい。ソロはもういいよ、と書かれるのもつらいけど。今回改めて、マツや武川くんのファンも多いということもわかりました。サーカスみたいだったと書いてくれた人が何人かいたけど、それはアコーディオンやバイオリンなどの楽器のせいかもしれません。「サーカス」は確かに今回のバンドの特徴をとらえた言葉だと思います。横浜のときはこの3人にドラムスの横澤龍太郎が入るので、さらに「サーカス」っぽくなるでしょう。
友部正人
9月8日(月) 横浜のサムズアップ
夕べは横浜のサムズアップでライブがありました。「あれからどのくらい」発売記念ツアーの3ヵ所目です。今までのロケット・マツ、武川雅寛に、横浜では横澤龍太郎が加わりました。これで1月12日のメンバー7人のうちの4人がそろったことになります。残る3人は関島くん、知久くん、水谷紹くんですが、紹くんは開演前にぼくたちに会いに来てくれました。髪を切り、無精ひげで。
開場時間が過ぎてもリハーサルが終らず、お客さんたちを待たせてしまいました。開演も20分ぐらい遅れたようですが、そのおかげで龍太郎くんは車の中に置き忘れてきたステージ衣装を駐車場まで取りに行くことができました。開演まで、ルーファス・ウエインライトをかけてもらったら、それを聞いてオリジナル・ラヴの田島くんが「いいね」と言っていました。今日のライブを聞きに来てくれたのです。鎌倉芸術館からも3人聞きに来てくれました。1月以来だったので、妙な懐かしさも感じました。関東での発売記念を横浜でやることにしたのは、「あれからどのくらい」が大船の鎌倉芸術館でのライブ盤だから。横浜でライブをすると、神奈川県の人がたくさん来てくれます。
今回のツアーは「あれからどのくらい」から14曲と新曲が2曲、詩集から朗読もしています。
毎回少しずつ違うし、ぼくたち演奏者と聞き手との違いもあるでしょう。ライブはやはり自分の耳で聞くものです。毎回小さな発見があって、そのことがバンドでやって楽しいことです。演奏には完成というものはないんだな、と思います。
このツアー、あと2回残っています。長野県諏訪市と岩手県盛岡市です。盛岡には龍太郎くんも来るかもしれません。東北の秋に誘われて。
友部正人
9月9日(火) パンチドランクとロックンロール
恵比寿ガーデンシネマで「パンチドランク・ラブ」をやっているので、見てきました。ニューヨークで、レンタルビデオで一度見ているのですが、せりふのわからないところが多く、日本でもう一度見ようと思っていました。
スクリーンがすごく横長で、視界が広がった感じがします。音も立体的なのでリアリティがあります。テレビの小さな画面で見るのとは全然違っていました。テレビのモノラルの音声だと、女性主人公のリナの声があまり聞こえませんでした。そのせいでかえって芸術映画のように思えたのですが。
リナはバリーに一目ぼれします。リナの同僚がバリーの6人の姉さんの一人で、6人の姉さんたちと写っているバリーを写真で見て好きになるのです。「かわいい」って。6人も家に女がいたせいかバリーはおくてで、女っけがないことを理由にゲイだと姉さんたちからからかわれます。女たちに囲まれていて外に出せない破壊衝動がバリーにはあります。そういうことを姉に暴露されて、リナと食事に行ったレストランのトイレを破壊してしまい、追い出されてしまいます。
「マグノリア」もそうだったけど、この監督の映画はそういう身近な感情を大切にしています。どんな変わったストーリーでも、一瞬にして思い出の映画になるような。
横浜から便利なせいか、ぼくとユミはよく恵比寿ガーデンシネマに行きます。恵比寿ガーデンにはベンチがたくさんあって、映画の余韻にひたるのにいい。できればあの近くに住んで、毎日本を持ってでかけたい。
映画の後は、渋谷でユミと別れて、公会堂にハイロウズとクオーリーメンを聞きにいきました。クオーリーメンのことはほとんど何も知りませんが、ジョン・レノンがビートルズの前に参加していた1950年代後期のグループのようです。演奏したのは活躍したそのころの約2年間の曲だと言っていました。プレスリーやチャックベリーなど、ロックンロールの代表曲ばかりです。「もうすぐ敬老の日」と冗談を言う彼らの髪はすでに白くなっていますが、声も演奏も現役のバンドと変わりません。ロックンロールの楽しさを、本物から教わったような気がします。ロックンロールは50年代の後半が一番ハッピーだったのかもしれません。
そんなロックンロールの精神を受け継いだハイロウズ、飛んだりはねたり楽しそう。アンコールでやった「日曜日よりの使者」はゆったりとしたアコースティックの曲なのに、ぼくが一番
ロックンロールを感じた曲でした。ちょっとしんみりする歌詞だけど、聞き手の心の中でたのしい粒に変わる。そんなところに音楽の秘密が隠されている気がしました。
友部正人
9月12日(金) インストアライブ
吉祥寺のタワーレコードではじめてのインストアライブをしました。売り場の一角をステージにして、40分ぐらい歌いました。ロケット・マツがマンドリンとアコーディオンを持ってかけつけてくれました。
どんな場所でも歌が始まればステージになってしまいます。それまで視聴したりしていた人が一度にお客さんに早変わり。人は普段状況に左右されて生きているんだなあ、と思います。その状況を一変させてしまうのが表現なのでしょう。そんな瞬間を味あわせてもらってうれしかったです。100人ぐらいの人が来てくれたみたいです。
ライブの後みんなでKuuKuuに久しぶりに行きました。大阪から「ニューヨークの半熟卵」を出版してくれたビレッジプレスの村元さんも来ていたので、出版のお祝いもかねて。
KuuKuuで久しぶりに高田渡に会いました。一人でカウンターで飲んでいたけど、すぐにぼくたちのテーブルに。菅原克己全集の話をしていました。さっそく帰ってから買ってあった菅原克己全集を読んで、これを書いています。
前と変わらず、KuuKuuにはグルジアのワインがありました。それだけでなんとなくうれしくなれる夜でした。
友部正人
9月15日(月) 諏訪、そして相模湖
諏訪のライブの翌朝、ぼくとユミと武川くんの3人で、朝11時前でも営業している日本そば屋を探して長い散歩をしました。ユミが観光案内所で聞いて、やっと一軒だけありました。諏訪湖のすぐそばのそば屋でした。
バンドで諏訪に来たのは80年代の「ポカラ」のころ以来です。主催の木下くん、たくさんお客さんを集めてくれました。バンドの演奏もツアー4ヵ所目なのでこなれてきて、いい演奏が多かったです。演奏と聞き手がいい具合に出会えたようです。
相模湖の「勝手にウッドストック」に行くために、ぼくとユミは甲府で武川くんと別れて、そこから各駅停車で相模湖へ。大月を過ぎたら雨が降り始めました。相模湖に着いても頼んであった会場からの迎えはなし。二人で一時間ほど駅で雨を見ていました。そしたらやっと来てくれた。連休で道路が大渋滞していたそうです。
遅れたせいで着いたらすぐに出番、ステージでマーガレットズロースと打ち合わせをしてそのまま本番に。3曲やりました。それからソロで1曲。そのあとバンバンバザールと3曲。全然別のライブを一度にやったみたいでした。
最後までコンサートを聞いて、サムズアップの小林さんに横浜まで車で送ってもらいました。横浜に着いたらもう夜中の1時を過ぎていたかな。もうすぐサムズアップに来るというヴィクトリア・ウィリアムズのCDをかけてくれたけど、ぼくは1曲も聞かないうちに眠りの中に。気がついたら横浜でした。
友部正人
9月17日(水)達成感のある街
ブームの宮沢和史くんのスタジオで彼の番組「極東ラジオ」の収録。関西一円と沖縄、名古屋などで聞くことができるそうです。放送は10月下旬とのこと。
プライベートスタジオとはいえ、貸し録音スタジオなみの設備でした。宮沢くんはギターを抱いて、快調なおしゃべりを聞かせてくれました。
彼は「no media」の影響で、ソロでも詩の朗読を続けているそうです。来年はまた「Live no media」をやる予定ですので、声をかけてみたいです。ぼくが「アメリカの匂いのしないところへ」を朗読すると、最近コンサートで行ったというポーランドが、全くアメリカの匂いのしないところだと言っていました。
この番組に出るのは2回目で、今回は「あれからどのくらい」の中の曲をかけてもらいました。
1回目に出たときに「すばらしいさよなら」をかけてもらい、また二人で新しい曲を作ろうね、と別れたのですが、「あれからどのくらい」に収録されている「鎌倉に向かう靴」がその新しい曲です。本当は宮沢くんにも鎌倉のコンサートに出てもらい、これを一緒に演奏したかったのですが、スケジュールの都合で実現しませんでした。
彼はスケート選手のようになめらかに番組を進めていきます。限られた時間なのに楽に遠くまですべることができました。
高円寺のコックテルという小さな居酒屋で、ビレッジプレスの五十嵐くんに頼まれて「ニューヨークの半熟卵」にサインをしました。都内の書店用だそうです。コックテイルというこのお店、お酒も食べ物もおいしいのですが、古本屋でもあるのです。それでぼくは感激して、ついつい日本酒を2本飲んでしまいました。さすが中央線と、ぼくは落ち着いてしまったのです。
ところが同じ高円寺の次郎吉で長見順さんのCD発売記念コンサートがあったのでゆっくりはしていられません。映画のセットのような小路をぬけて次郎吉へ。まだ開演していませんでした。長見順さんはエイプのステージでギターを聞いたことがあるだけでした。サヨコさんの歌のバックでエレキギターを弾いていたのですが、その激しさに圧倒されました。それで大好きになって、こんな日が来るのを待っていたわけです。
長見さん、すごくおかしくて、おもしろくて、激しくて、かわいい歌ばかり歌う人です。どの歌もどうしようもなくブルースで、かっこよかった。もしまだまだ現代詩手帖の「ジュークボックス・・・」の連載が続くのなら、彼女の「OYAZI」というアルバムはぜひ取り上げようとおもいます。
ところでこの「ジュークボックス・・・・」の10月号は、長野のネオンホールのオムニバスCDを取り上げています。ぜひ読んでください9月25日ごろ発売です。
今日は盛りだくさんの日でした。東横線、小田急線、井の頭線、中央線と電車にもいろいろ乗りました。どこに行くにも電車に乗らなくてはならない東京は、どこにでも徒歩や自転車でいける横浜に比べると、ずっと達成感を味わえる街です。
そういえば中央線の電車の中でばったりと知久くんに会ってしまった。予定にないことにもばったり出会えるところです。
友部正人
9月18日(木) 「バラッド・オブ・ランブリン・ジャック」
久しぶりに原宿に行き、クレヨンハウスのレストランで打ち合わせ。コーヒーとビールが同じ値段なのでビールにしました。
スパイラルガーデンなどいくつかの会場に分かれてやっているフィンランドの写真家たちの展覧会、時間があったので1ヵ所だけ見に行きました。絵画のような写真で、きれいとはこういうことだと思いました。
明治通りの友人のオフィスで、「バラッド・オブ・ランブリン・ジャック」の上映会をしました。ランブリン・ジャック・エリオットを彼の娘が撮ったドキュメンタリー映画は、アメリカでは3年ぐらい前に公開されたのですが、日本ではまだ予定がありません。映画の世界のことは全くわからないので、岩永くんというぼくの古い友人に声をかけて、日本での上映に力になってくれそうな人を集めて内輪の上映会をしたのです。
約2時間の上映の後、いろいろと意見を聞いてみると、音楽著作権の問題があって、劇場公開には莫大なお金がかかりそうだということがわかりました。どうやったらこの映画を日本の人に見てもらうことができるのか、まだわかりませんが、今日見ていただいた人たちの協力で、実現に向けての1歩は踏み出せたようです。まだ時間はかかりそうですが。
友部正人
9月23日(火) ソロツアーと横浜フリーマーケット
広島、福山、出雲とソロで歌ってきました。
広島は雨、なのに集まりはよく、中には濡れながら自転車で来た人も。間に休憩を入れていつもの約2時間のステージでした。開演前にオーティスの主人の佐伯さんに讃岐うどんに誘われました。そして終演後はオーティス自慢のカレー。
翌日また別の店で讃岐うどんを食べました。広島でははやっているみたいです。
去年の夏にできたという原爆祈念館を見て、在来線で福山へ移動。
福山も雨で、会場のポレポレの急な階段は雨ざらしなのでよくすべります。荷物を何回にも分けて店内に上げて、すぐにリハーサル。ポレポレはなぜかとても音がよく、そのせいでついついのってしまいました。のんびり楽器を片付けていたら、残っていたお客さんたちがハッピーバースデイを歌い出しました。誕生日の女性がいたのです。みんなポレポレの仲間だったようです。歯医者さんだという人が、「あれからどのくらい」をぼくから買ってプレゼントしていました。
そして21日は倉敷から特急で出雲に。スーパーやくもに乗るのは8月のツアーから2度目。カーブの多い振り子列車でよく揺れます。
駅前の市の施設でコンサートをしました。主催は初めてという布野さん、家族総出でコンサートをしてくださったのですが、お客さんの入りがイマイチで、ちょっとがっかりさせてしまったかもしれません。この日は昼間から寒くて、ぼくは半そでのTシャツしか持っていないことを後悔しました。翌朝は早起きして、大社町の海まで走りました。
そして横浜に戻って来て、今日はみなとみらいのフリーマーケットに行きました。
ユミが大好きな、合成樹脂でロボットとかを作ってる人がまた来ていて、今日は天使になった猫を買っていました。ぼくはイギリス製のワークブーツを買いました。寒かったけどのんびりとした一日でした。
友部正人
9月28日(日) 盛岡、そして乳頭温泉
「あれからどのくらい」発売記念ツアーの9月分は終わりました。
その最終回はぼくもメンバーも大好きな街、盛岡でした。ドラムスの横澤龍太郎くんも、盛岡なら、と車で自分からやって来ました。北のはずれの街に勢ぞろいしました。
開演前にみんなでクラムボンに行きました。クラムボンは「耳をすます旅人」にも出てくるおいしいコーヒー屋です。カレーを食べたりプリンを食べたり、帰りにみんなコーヒー豆を買いました。楽屋がコーヒーの匂いに包まれた。
岩手県は広いので、遠くからも来てくれました。今は一関市に住んでいる及川くんは、「ポカラ」の頃のディレクターでした。「ポカラ」や「カンテグランデ」の中の「シャンソン」や「ロックンロール」は懐かしかっただろうと思います。池袋のスタジオで朝まで録音したことをぼくも思い出しました。
東京から来てくれた人や、仙台から赤ちゃん連れで来てくれた人、郡山から大勢で車で来てくれた人たちの客席のドラマが伝わってくる夜でした。
今日はホテルをチェックアウトして、主宰の武田さんの案内で、秋田県田沢湖の近くの乳頭温泉郷、東北で一番人気のあるという鶴の湯に行きました。ユミも雑誌で知っていたぐらいだから、有名な温泉なのでしょう。日曜なので広い駐車場がいっぱいになるくらいたくさんの人が来ていました。白濁色の湯で、夜になるまで肌についたイオウの匂いが消えませんでした。何種類もの湯があって、「一つの温泉なのに不思議だね」と武川くん。「あと2週間もすれば紅葉だね」と龍太郎くん。みんななんとなく青空を見上げてしまいます。そんな青空の下を堂々と素っ裸で行きかうおじさんたち。「男の裸なんて見たくないよ」とユミ。でもそういいながら、だんだん自分も入りたくなってきてお風呂場に。
湯上りの牛乳とビールがおいしかった。大勢の人でごちゃごちゃしているのがまたおもしろい場所でした。帰りはみんな盛岡に着くまで眠ってしまい、車の中は棺おけみたいに静かだったとユミは言っていました。
あるときはサーカスバンドと呼ばれ、あるときは1月12日バンドと呼ばれたツアーバンドですが、回を重ねるごとに演奏がよくなっていったのが特徴でした。このツアーのファイナルとして、来年1月に「あれから1年」と題したライブをする予定でいます。
この上り調子のままで、次のアルバムの録音もできないかなと考えています。
友部正人
10月2日(木) 元町横浜
9月29日のサムズアップのビクトリア・ウィリアムズ、中止になったようですね。前回のリンダ・トンブソンに続き、トムズキャビンは御難続き。ビクトリア本人ではなく、メンバーでもある旦那さんが風邪だからだそうです。
1996年に、ぼくがニューヨークからフランク・クリスチャンを呼ぼうとしたときを思い出します。「夢がかなう10月」の発売記念で、渋谷のクアトロでライブをしたときでした。前日の朝ニューヨークのフランクから、当時のぼくの自宅だった中目黒に電話がかかってきて、風邪をひいて中耳炎になってしまい、行かれないと言うのです。医者から飛行機に乗るのを止められたそうです。なんとなく今回のケースに似ています。確かに気圧の変化は耳に悪影響を与えるのでしょう。仕方なくフランクをあきらめて、中川イサト氏や柳原陽一郎くんに助太刀を頼みました。たかが風邪なのに、という思いはまだ残っています。
横浜に来て6年目になりますが、久しぶりに元町をユミと歩きました。
来年みなとみらい線が開通するからか、通りは工事をしていました。平日の元町は静かで、田舎の感じがします。横浜の古きよき部分はよき田舎なのです。うちきパンでパンを買い、本屋で立ち読みをして、眼鏡屋で老眼鏡を買いました。うれしい。中古レコード屋をのぞいて、
酒屋で日本酒を買ってバスで帰りました。バスだと本当に近いのに、なかなか行かない元町でした。
友部正人
10月6日(月) 七飯アップルコンサート
昨日は函館郊外の七飯町の観光果樹園の中で歌いました。りんごとぶどうとすももの収穫祭でした。函館市を遠くに見下ろす山の斜面には、広大な果樹園がいくつも広がっています。七飯町はアメリカのボストンと同じ緯度にあるそうです。青森市がニューヨークと同じ緯度のように。青森と七飯の距離は、ニューヨークとボストンの距離です。七飯の歴史はりんごの歴史で、西洋からりんごがはじめて日本に入ってきた町だそうです。雄大な自然の中のりんご園にいると、イギリスのエリナ・ファージョンの「りんご畑のマーチンピピン」を思い出します。
地域の祭りなので、カラオケ、吹奏楽、フルートやハープの演奏、フリーマーケット、クラフト市、あらゆるものがあって、そこにぼくの歌をどうあてはめられるか考えました。結局、その場の(アップルコンサート)にぼくを合わせるのではなく、ぼくがそこに飛び込んでいく、という方法でやることにしました。飛び込んで行っても逃げずに、七飯の人たちはちゃんと受け止めてくれました。中には現代詩手帖の特集でぼくを知ってたという女性もいました。
コンサートの後、果樹園のオーナーの冨原さんから、七飯に住みませんか、と誘われました。七飯で老後を送るために、都会から移って来る方が多いのだそうです。りんごを食べて毎日歌ってたら甘くていい声になるかも。
友部正人
10月7日(火) 試写会に行きました。
久しぶりに映画の試写会の案内が来たので見に行ってきました。
ポルトガル、ドイツ、フランス合作の「ヴァンダの部屋」です。ポルトガルはリスボンの失われ行くスラムに育った姉妹に焦点をあてたドキュメンタリー。開演前に「上映時間は3時間です」とアナウンスされたときは、えっ、しまった、調べてから来ればよかった、と思ったのですが、途中うとうとしたものの、あっというまの3時間でした。
ヴァンダとジータの姉妹は暇さえあれば麻薬をやっています。ヴァンダはひっきりなしにひどく咳き込みます。どこか悪いに違いありません。ヴァンダとジーコの家は八百屋で、ヴァンダはスラムをレタスやキャベツを売りに歩きますが、ほとんど売れません。父親は酔っ払っては、何もしないヴァンダに説教をします。二人の母親は上品な顔立ちの美しい人です。そういえば、ヴァンダとジータも美しい。
あまりにも麻薬をやるシーンが多いので、麻薬をやめようとしている人には勧められない映画です。ブルドーザーで破壊されつくそうとしている町、誰かが捨てた家に住み、麻薬をやるしかない若者たち。まるでポルトガル政府は、そこに育った人間ごとスラムを消滅させてしまおうとしているみたいです。
ぼくは東川町写真フェスティバルで今年出あった齋藤亮一さんの「ロスト・チャイナ」という写真集を思い出していました。動きのないこの映画は、連続するスチール写真を見ているのに似ています。これは映画という形をとった写真集なのかもしれません。ほとんど音楽がなく、ビルを破壊する音だけが延々と音楽のように続き、その最後に破壊の音は美しいバイオリンに変わります。そして破壊の音がバイオリンの美しい音に変わるとき、スラムは画面から消えるのです。
友部正人
10月10日(金) 家具
みなとならいにあるパシフィコ横浜で、旭川家具の新作展示会が今日から3日間あって、東川町の工房「駄々」の岡崎君も自分の作品を持って参加しているので会いに行きました。行く前に電話がかかってきて、CD用のフレームに入れるCDを忘れたので貸してくれ、といわれ、ジャケットのいいCDを探して持って行きました。壁に飾るCD用のフレームには3枚用と5枚用があって、下地の布の模様とフレームの色を考えながら、そこに飾るCDを選ぶのは楽しいにちがいありません。
岡崎君の作る家具にはあまり直線がなく、白樺の林にでも置いたら、地面からはえてきたように見えるかもしれません。表面には丁寧にやすりがかけられていて、細かい仕上げもよく考えられています。
ぼくはいつか彼に、小型のハーモニカケースを作ってもらおうと考えています。
友部正人
10月11日(土) 板橋オーケストラ
横浜では今日から2日間のジャズ・プロムナードがはじまりました。
ぼくとユミはペア券を買って、いくつかの会場を自転車でまわって歩きました。
赤レンガホール、開港記念館、大桟橋ホール、横浜にはいい会場がたくさんあります。いつかぼくのライブをするための下見にもなりました。
夜は関内大ホールで板橋文夫オーケストラとケニアのギリヤマ・ダンス・トゥループの共演を見ました。まず板橋オーケストラが2時間近くやって、それからギリヤマ・ダンス・トゥループ、そして合同のセッションという感じで、全体で4時間のコンサートでした。このホールで板橋オーケストラを聞くのは去年に続いて2回目です。そして今年の彼らの演奏には本当に圧倒されました。ちゃんとした言葉を持った音楽を、言葉のない演奏に感じたのです。迷いのないおおらかな演奏、全員が一体となったときの信じがたいような迫力とスケールの大きさ、今日聞いたいくつかの演奏はそのとき完全にふっ飛んでいました。本当におもしろかった。
友部正人
10月12日(日) 板橋オーケストラ2
久しぶりに映画監督の水谷俊之と横浜で会いました。彼も旭川の岡崎君の友だちで、家具展を見にやってきたのです。野毛のおかしなラーメン屋でビールを飲みながらラーメンを食べて、それからドルフィーというライブハウスに、またまた板橋文夫オーケストラを聞きに行きました。
ドルフィーは超満員で、二部まで外で待たされました。今夜の板橋オーケストラは昨日に比べるとラフで、全くの即興という感じです。昨日完全だったものをわざとこわしているような感じ。個人プレーが目立ちました。板橋さんのピアノソロも今夜はすごかった。昔から板橋さんのレコードを聞いていたという水谷くんは、感激していました。
終了後、なつかしい面々と挨拶しました。板橋オーケストラのうちの6人(板橋文夫、片山広明、梅津和時、井野信義、太田恵資、吉田隆一)は一緒にやったことのある人たちです。そして板橋さんとは来年の1月か2月に、ドルフィーでデュオでやろうという話まででました。関東ではまだ二人でやったことがないので、ぼくもぜひと思っています。
友部正人
10月15日(水) 三宅伸治
横浜のガンボスタジオで、三宅伸治くんと11月27日のリハーサル。こんなに早くやるのは、明日からぼくがニューヨークに行ってしまうため。リハーサルの途中、震度4の地震がありました。
三宅くんとは近江八幡、豊橋、旭川、札幌、小樽と、今年5回もコンサートをしているのに、まだ東京では一回もしたことがありません。ぼくが「ライオンのいる場所」を出す前に、「待ちあわせコンサート」にモジョクラブとして出てもらったことがあり、できたての「少年とライオン」
をモジョクラブと一緒に演奏したのを覚えています。それ以来何度もゲストに出てもらったり、一緒に曲を作ったりして、今では二人のレパートリーはかなりたくさんあります。11月27日はたまった二人のレパートリーをまとめて聞いてもらおうと思っています。それから、今年の北海道ツアーのときは準備不足でできなかった「ワッツ・ゴーイング・オン」やボブ・ディラン
の「レニーブルース」なんかも新しくやる予定です。
いつもはぼく一人で行く旭川のアーリータイムズの野澤さんは、今年の三宅君とのライブを気に入ってしまい、客のいない夜なんかに、一人でビールを飲みながらライブの時のMDをよく聞いているそうです。
友部正人
10月17日(金) リンダ・トンプソン
7月に来日したけど、声が出なくなってコンサートはできなかったリンダ・トンプソンと、そのときリンダのかわりに入場料フリーで1時間も歌ってくれた息子のテディ・トンプソンのライブが、ニューヨークのソーホーのユーズドブックカフェで今夜ありました。
ニューヨークは今日から気温が下がり、しかも夕方から雨、ぼくもユミも時差ぼけなのかあまりでかけたくはなかったのだけど、本屋でのコンサートなので行ってみることにしました。
イギリス人のリンダの歌にはストーリーがあって、どれもとても美しい。男にすてられた寂しさを酒でまぎらわす歌が多いのは、離婚したからでしょうか。それでもリチャード・トンプソンとのアルバムの中の曲もやって、お客さんはとてもうれしそうでした。最後にたぶんボブ・ディランの曲だと思うのだけど、「テイク・ア・メッセージ・トゥー・マリー」をやっておしまい。アンコールは何だったか今は思い出せません。リンダさんはドクロの絵の入ったセーター、テディくんは武蔵という漢字の入ったTシャツ、普段着のままのコンサートでした。
ユーズドブックカフェではたまにコンサートをやっているのは知っていました。カフェのある感じのいい古本屋なので、ぼくもいつか「夜の本屋」ニューヨーク編をやってみたいと思っていたのです。題名は忘れたけど、ニューヨークを舞台にした恋愛映画にも少しだけ使われていました。ここでリンダさんのようなプロの歌手が歌うのはぼくは初めて聞きました。70席ぐらいの空間に100人ぐらいつめかけていました。
コンサートが終って友だちと話しているリンダにユミが話しかけます。リンダとテディが7月に横浜に来たときに、サムズアップのトイレでユミはリンダと話をしたことがあるので、すぐにユミのことを思い出して大喜びでした。しかも日本からわざわざ来たと思ったらしく、とてもびっくりしていました。6月にニューヨークのブルックリンで、7月に横浜で、10月にニューヨークで、そして11月末にまた横浜で会いそうなので、きっとぼくたちのことをリンダとテディは大ファンだと思っているにちがいないです。(7月の日本ツアーが中止になったので、それを11月にやるそうです。)
友部正人
10月18日(土) 灰野敬二とダン・バーン
JFK空港でばったり会った、リクオのパーカッショニストだった山本さんと、彼がプロデュースをしているECOさんの新譜のミックスダウンを見学に行きました。真田さんというエンジニアの個人スタジオです。1時間ぐらい作業を中断させてしまいました。山本さんたちはミックスのためだけにニューヨークに来たそうです。
灰野敬二のライブを見にライブハウス「トニック」へ。地下鉄Fラインのブロードウェイ駅で30分も電車を待たされたおかげで、ぼくとユミはだいぶ遅刻。すでに演奏は始まっていました。
灰野さんのライブは高揚感があってとてもよかった。お客さんに日本人があまりいないのも、日本人のライブではめずらしいこと。私語を許さない得体の知れないものが、客席を支配していました。久しぶりの灰野さんにニューヨークで会えたのはうれしかった。
今夜はライブの二本立てで、10時からボトムラインにダン・バーンを聞きに行きました。今ちょうどニューヨークに遊びに来ているシバと行ったのだけれど、始まると同時に「いいね」とシバはダン・バーンに前向きです。
2000曲作ったら自爆するんだ、と歌の中で言っているように、ライブでやるのはいつも新曲がほとんどです。普通の人の視点から歌を歌おうとしているのに、かえってありきたりじゃないのがおもしろい。普通の人というのは、一番自由な人ということなのでしょう。誰の考えにも気を使うことなく、普通の人だからこそ言える普通じゃないこと。それがダン・バーンの持ち味です。普通の人はワンステージ1時間以内なのに、彼は2時間以上やって、全然普通じゃないところを見せつけました。そんな彼がみんな大好きらしくて、午前1時近くまで続いたコンサートも超満員。ますます人気が出てきたみたいですが、バンドと録音した新譜はどうもありきたりでした。彼のおもしろさはライブにあるようです。
今年30周年だというボトムラインですが、今夜のように超満員でも、維持できなくて閉店に追い込まれるという話もあるそうです。いったいどうなっているのでしょうね、ニューヨークの家賃は。
友部正人
10月19日(日) マサとブロス・タウンゼンド
ハーレムに住む女性サックス奏者のマサから案内をもらって、マンハッタンのミッドタウンにある教会で催されたブロス・タウンゼンドのメモリアルコンサートに行きました。
ぼくはその人を知らなかったし、コンサートの内容もよくわからなかったので、マサの演奏が聞ければいいや、というぐらいの気持ちで行ったのですが、歌ありタップダンスありジャズありの黒人文化にどっぷりとつかった3時間でした。おそらくあれだけ多岐にわたるパフォーマンスを一度に見られることは、通常のコンサートではなかなかないと思います。しかも無料で。
後でマサから聞いたのですが、ブロス・タウンゼンドは今年の春に65歳で亡くなったピアニストで、10年間ぐらいマサのジャズの先生だった人だそうです。今夜の催しは、残されたブロスさんの奥さんとマサが中心になって準備されました。マサとアメリカのジャズとの深く長いつながりを感じた夜でした。
晩年、病気で失明したブロスさんは譜面を残さなかったので、マサとバンドのメンバーが一緒にCDから音を譜面にしたそうです。それをバンドで演奏する予定だったのに、司会の女性のわがままと飛び入りの数の多さに、それは予定のほんの一部しか実現できませんでした。特にジャズヴォーカルの女性はみんなわがままで、とてもやりにくいとマサは言っていました。そんなことも知らずに、ぼくとユミは次々と登場するタップダンサーたちの踊りや歌手たちの歌声を堪能していたのです。
コンサートの後ケーキやスナックが出され、帰ったらもう12時近かったけど、マサのアルバムの中でピアノを弾くブロス・タウンゼンドを聞いてみました。ぼくにはとても自由にピアノを弾く人のように思えました。
友部正人
10月24日(金) イボ・パパソフ
ブロードウエイの95丁目にあるシンフォニイ・スペースでブルガリアのイボ・パパソフのコンサートがあって、聞きに行ってきました。イボ・パパソフはぼくより2歳若いのに、伝説のクラリネット奏者といわれています。日本でも昔2枚のアルバムがミディから出ていたのですが、すでに廃盤になっていて、今は手に入りません。
ぼくはニューヨークで買って、1枚だけ持っています。彼はロマーノ(ジプシー)と呼ばれる人たちの子孫で、伝統音楽を取り入れたオリジナルを演奏しています。いかにもジプシーっぽい、自信にあふれた感じのボーカルの女性をはじめとして、ユーリというサキソフォン奏者や
若いギターリスト、超絶テクニックのドラマー、16分の11拍子という音楽に圧倒されてしまいました。ユミはそんなことはないと言うけど、あの現代的ではない強さは、日本とどこかつながりがある気がぼくにはしました。いや、ぼくとかな。
友部正人
10月25日(日) お呼ばれの毎日
このところ、お呼ばれが続いています。
22日はハーレムに住む日本人女性サックス奏者、マサさんのところ。ここでのパーティはいつも一品持ち寄り制。マサさんがベジタリアンなので、チキンの丸焼きなんていうのはだめです。今回はアパートの隣にあるフェアウェイというマーケットでクスクスのサラダやフォッカッチャやオレンジジュースなどを買いました。
ぼく以外は全員女という集まりなので、ときには女同士の会話に入れなかったり、入れてもらえなかったり。途中からカンちゃんの旦那のケビンが娘を連れて来たけど、やっぱりぼくと同じようにいないも同然。生後半年の下の息子を連れて先に帰りました。彼らの子供たちは黒人と日本人のハーフでとてもかわいい。下の男の子が女の子みたいにおとなしく、上の女の子は男の子みたいでした。
24日はクイーンズのメグのうちに。今、東京からシバが来て居候しています。シバがニューオーリンズのガンボ料理を作り、メグはコーンブレッドを焼いてくれました。高校生になったメグの息子にも久しぶりに会った。髭がはえていたな。
みんなお喋りなのでいつのまにか12時が過ぎてしまい、地下鉄ももう各駅しかないので一時間以上かかるからやだなあと内心思っていたら、メグが車で送ってくれました。真夜中のドライブは気持ちがいいし、クイーンズボロー橋を渡るときのマンハッタンの夜景がきれいでした。セントラルパークはマラソンが近づいているからか交通規制していて渋滞。11月2日のニューヨークシティマラソンはニューヨーク市の一大イベントです。
今夜は、今年の夏に東川町国際写真フェスティバルで知り合った、写真家で大学の先生の比嘉さんのリトルイタリーのお宅に。比嘉さんは苗字でもわかるように沖縄の方です。
ぼくと比嘉さんご夫婦(奥さんはマドレーヌさんというイギリス人)にはマラソンという共通点があります。比嘉さんのマラソン仲間の、まだ若い日本人の夫婦(宇田さん)も一緒で、最初はマラソンの話ばかりで疎外感を味わうのではないかとユミは気にしていたのですが、そんなことは全然なくて、もっともっといろんな話ができたおもしろかったです。それに比嘉さんの料理はとてもすばらしく、さすがアーティストなのか、彩りもいいのです。それに、ニューヨークで沖縄のトウフヨウやもずくやアオサが食べられるとは思わなかった。いつのまにか雨が降り出していて、宇田夫妻もぼくたちの近所に住んでいるので、一緒にタクシーで帰りました。
友部正人
10月29日(水) マラソン・エキスポ
今日からマンハッタンの35丁目の西の外れにあるコンベンションセンターで、ニューヨークシティマラソンの出場登録とマラソングッズなどのエキスポが始まりました。57丁目からシャトルバスで会場に午後2時ごろ着くと、もうたくさんの人が登録に来ていました。ゼッケンやいろんなおみやげ品をもらい、その後ユミと二人で、スポーツ飲料や薬の試供品を集めながら、広い会場を夕方まで見て歩きました。マラソンの日は暑くなるらしいので、薄いウエアーの上下も買いました。日曜日にお宅にお邪魔したばかりの、写真家の比嘉良治さんご夫妻にばったりと出会って、一緒にしばらく立ち話しました。比嘉さんのお宅には明日またうかがって、次号の「補聴器と老眼鏡」のインタビューをする約束です。
夜は、ユージンという台湾人の友だちが9月にイーストビレッジに開店した「カサデラ」という店に日本酒を飲みにいきました。日曜日に比嘉さんのお宅で一緒になった宇田さんも誘って。ユージンの彼女は名古屋出身の日本人で、「カサデラ」という名前は名古屋にある地名から来ているそうです。「カサデラ」は日本酒と和風のおつまみを食べさせる店で、ニューヨークには最近こういうお店が増えているようです。ニューヨークでは日本酒は高いので酔うほどには飲めませんが、おいしい日本酒をそろえているのがよくわかりました。ユージンはぼくのマラソンの先輩でもあるとてもいい奴です。
友部正人
10月30日(木) 補聴器と老眼鏡の取材
昨日もマラソンのエキスポで偶然に出会った写真家の比嘉良治さんのお宅にうかがいました。比嘉さんはソーホーやチャイナタウンがすぐ近いリトルイタリーの大きなロフトに、イギリス人の奥さんのマドレーヌと二人で住んでいます。
今日の目的は雲遊天下で連載している「補聴器と老眼鏡」のインタビューです。2年前に始まったこの連載のインタビューもこれで8人目になります。今年の夏、北海道の東川町国際写真フェスティバルで知り合ったときは、比嘉さんのことを全く知りませんでした。ぼくが朝走っていたら途中で比嘉さんとすれ違い、マラソンの話をしたのが最初です。比嘉さんがニューヨークに住んでいて、ニューヨークシティマラソンに参加したりポランティアをしたりしているとそのとき知りました。それから何回か連絡をいただいて、先日の日曜日にはじめてお宅にうかがって夕食をご馳走になり、奥さんのマドレーヌさんにもお会いしたのです。
比嘉さんは今年65歳で、数年前にロングアイランド大学の教授職を退職して、マラソンや自転車を楽しみながら、アーティストとして仕事をしています。もう40年もニューヨークにいる沖縄生まれの日本人、比嘉さんの話はとても刺激的でした。次号の「補聴器と老眼鏡」をお楽しみに。
友部正人
10月31日(金) ハロウィンの夜
今日はハロウィン。アパートの地下にあるランドリーに行くと、子供たちの「トリック・オア・トリート」の訪問の申し込み用紙が貼ってありました。用紙はもう全部なくなっていたので、沢山の人たちが、今夜の子供たちの訪問を楽しみにしていることがわかります。
夕方でかけるとき、妖精や悪魔のような衣装のかわいい集団と廊下で出会いました。訪問するアパートのリストを手に、迷子のようにビルの中を歩いていました。
グッゲンハイム美術館ではジエイムズ・ローゼンクイストという人の回顧展をやっています。ポップアートのはしりのような人です。金曜日で料金が自由の日なのに、ハロウィーンのせいですいています。フェリーニのイラスト展もやっていてちょっと得をした感じ。ばったり知り合いに会い、そのままメトロポリタン美術館にも行くというので、ぼくとユミも彼らと一緒に行きました。そしてフィリップ・ガストンという人のすばらしい絵に出会えました。
ハロウィーン・パレードの終ったばかりのグリニッジ・ビレッジを歩いて、それからトライベッカのアーサーのロフトに行きました。「夢がかなう10月」の録音エンジニアのアーサーのことは「ニューヨークの半熟卵」にも出てきます。ガールフレンドのクリスチーナと 16匹の猫を飼っています。クリスチーナはクラシックピアノの先生ですが、彼女自身はとてもパンクです。ミュージシャンばかり集まった楽しい夜でした。
気がついたらもう夜中の2時を過ぎていて、急いで地下鉄で帰りました。ユミもめずらしく夜更かししてワインなんか飲んで、クリスチーナやカナダの若い女性と楽しそうに話していました。
友部正人
11月2日(日) ニューヨークシティマラソン
ニューヨークシティマラソンに出て完走しました。去年より実質1秒だけ早い3時間34分45秒でした。今年のマラソンは気温が高いので不利かも、といわれてたとおり、スタートの午前10時10分には太陽の日差しが暑いと感じるほどになりました。初めて、出発直後のベラザノナロウ橋の上から立小便をしました。橋の上に並んでみんなが立小便をするのを見て、初めて参加したときは驚きました。おしっこがいつまでも止まらないように見えたのは、橋がものすごく高いからかもしれません。真下を大きな貨物船が行きかっています。
今年は自己予想タイムを早くしたので、ほとんど待たないでスタートしました。
はじめから飛ばす集団と一緒だったので、真ん中あたりで一度バテてしまいました。ファースト・アヴェニューの76丁目でユミが待っていたので、それからまた持ち直して、結局は去年と同じぐらいのタイムでゴールできました。今まで3回ニューヨークシティマラソンを走ったけど、練習しても楽に走れる事はないということがわかってきました。真ん中でバテなければ、もしかしたら3時間30分を切れたかも、なんて、まだ終ったばかりなのに、もう来年のことを考えていました。
友部正人
11月4日(火) クランベリージャム
昨日は一日何もしないでいよう、そう決めた一日でした。夕方買い物にでかけたとき、マーケットでユミがクランベリーの実を見つけました。サンクスギビングの前のこの時期にしか売っていないそうです。アパートの近くのビッグニックでとてもおいしいハンバーガーを食べてから、家でさっそくユミはクランベリーのジャムを作りはじめました。
けさはそのクランベリージャムをたっぷりとのせて、ぱりぱりのトーストをぼくは3枚も食べました。クランベリーのすっぱさと甘さはとても野性的です。ユミがクランベリーを好きなのは、クランベリーズというロックバンドが好きだかららしいです。
これから夜の飛行機で、ぼくたちはパリにでかけます。ぼくにとっては1990年以来二回目、ユミにははじめてのパリです。日曜日には田舎町のポワチエまで、パスカルズのライブを聞きに行く予定です。パリでの出来事は、またニューヨークに帰って来てから書くことにします。
友部正人
11月5日(水) パリ1日目
朝7時すぎにシャルル・ド・ゴール空港に到着。英語だとチャールズと呼ぶのですね。RERという電車でパリのど真ん中のサン・ミッシェルまで。ホテルはそこから歩いて5分ぐらいのところでした。朝に着く飛行機に乗るときは、飛行機の中で寝なくてはだめです。そういないと着いてから寝ることになります。ぼくとユミは飛行機の中で寝なかったので、ホテルにチェックインしたらすぐに夕方まで寝ました。その前にコーヒーを飲み、サンドイッチを食べ、ワインを買いました。はじめてユーロを使いました。
夕方目が覚めたので、歩いてポンピドーセンターまでニキ・ド・サンファルとティンゲリの噴水を見に行きました。夜、マチルダがホテルまでぼくとユミに会いに来ました。マチルダはぼくたちのとても古い友人です。マチルダに勧められて、クルーニー・ソルボンヌというメトロの駅で一週間フリーパスを買いました。フリーパスには写真が必要なのですが、マチルダは似顔絵でだいじょうぶと、紙切れにぼくとユミの似顔絵をボールペンで描いてフリーパスの写真を貼るところに貼りました。これでOK、と思っていたら、後で大変な目にあったのですが。
同じ日の夕方日本からパリに到着していたパスカルズのロケットマツからホテルに電話があって、バスティーユのレストランで会うことになりました。みんなとても眠そうで、話もはずみません。でも一緒にコーヒーを飲んで、彼らのホテルを見学に行きました。彼らのホテルもぼくらのホテルと同じ二つ星です。中も見せてもらいましたが、同じ感じでした。龍太郎くんは寝ていて、夕食をパスしたみたいです。でもぼくとユミが彼の部屋に行くと、うれしそうに飛行機の窓から撮ったシベリアの写真をコンピューターの画面で見せてくれました。
友部正人
11月6日(木) パリ2日目
ホテルの近くで青空市が開かれるのでわりと早起きしました。昨日と同じ店でコーヒーを飲み、昨日と同じ店でサンドイッチとマカルーンと、今夜マチルダの家におみやげで持って行く洋ナシのトルテを買いました。このケーキ屋のおかみさん、とっつきにくいのですが、生活臭くてなかなかいい感じです。青空市で牛乳とチーズを買い、ホテルの部屋で朝ごはん。サンドイッチ屋で買ったマカルーンのおいしいこと。「ショコラ」という映画に出てきた、チョコレートのショウウィンドウでまたたびを食べた猫のようになった町長さんみたいな気分でした。
マチルダが勧めてくれた、コルシカ島のポリフォニックコーラスを聞きにトリニティ教会へ。女性コーラス、男性コーラス、混声コーラスと、いろいろな組み合わせで土着的なハーモニーを聞かせてくれました。教会なので寄付だけです。コルシカ島に行ったら、断崖の上なんかで、ああして歌っているのかしら、なんて想像しながら聞いていました。どうしても背景に海が見える歌声でした。
モンマルトルのサクレクール寺院に行って、モンマルトルを散歩したけど、坂ばかりでけっこうくたびれました。途中で缶ビールを買って、お店のおねえさんに、フランスは道でお酒を飲んでもいいの、と聞いたら、いいのよ、と答えてくれました。へえ、アメリカはだめなんだよ、と教えてあげました。
夜はペールラシュール墓地の近くに住んでいるマチルダのアパートに行きました。ぼくたちのために、晩御飯を作ってくれるというのです。彼女はチュニジアの人なので、チュニジア料理をぼくたちはリクエストしました。同じ建物に住む、マチルダの勤めている大学の同僚で哲学の先生だというマイケルと、マチルダの長年のボーイフレンドのジェフと、ギリシャ人のヘレンが集まりました。チュニジア料理はオクラを使っていて、ちょっとニューオーリンズのガンボと似ています。マチルダは日本人はオクラなんて知らないと思っていたのですが、ぼくたちがよく知っているというと、かなりがっかりしていました。マチルダのボーイフレンドのジェフは昔はカメラマンだったのですが、今はパリ13区の助役さんです。フランスの左翼的な緑の党から立候補して当選したのです。でもぼくと同じように、ネクタイの締め方も知りません。
おみやげにワインを買って、しまったと思いました。フランスの人たちはワインにとてもうるさいのに、ぼくもユミもワインのことなどたいして知らないのです。それなのにみんなぼくたちが買って行ったワインから飲み始めたので冷や冷やしてしまいました。その後他の人が持ってきたのを飲んだら、そっちの方がとてもおいしかったので、まずったかな、と思ったのです。
パリは1時にメトロがおしまいになります。夕食の時間が遅いので、わりと短い時間でお開きにしなくてはなりません。一生懸命作った料理を一生懸命ぼくとユミに食べてもらおうとしていたマチルダは、今度は一生懸命歩いてメトロの駅まで送ってくれました。
友部正人
11月7日(金) パリ3日目
なんと午後まで熟睡してしまった。ホテルの裏手、ソルボンヌ大学周辺を歩いてみて、中古レコード、CD屋が多いことを知りました。
サンジェルマン・デュ・プレの有名なカフェ、ドゥ・マゴの前で記念撮影。学校帰りの小学生の男の子が、丸めた紙切れをタバコのように得意そうにくわえていて、それが妙に印象的でした。パリらしいものを見たという感じ。
1990年に一人でパリに来たときに泊まったホテルが四つ星になっていてびっくりです。ホテルの前の市場もなくなっていました。「こんな街のど真ん中だったの」とユミも意外そうです。ぼくだって意外でした。あのとき泊まっていたホテルがドゥ・マゴにこんなに近かったなんて。
エッフェル塔に向かって歩き出したものの、なかなかたどり着けそうもなくて、ぼくもユミもだんだん口数がすくなくなっていきます。エッフェルについたのは六時。とうに暗くなっていて、二人とも意気消沈していたら、突如目の前でエッフェル塔が光りだしたのです。ものすごい明るさで。それでぼくもユミも元気になって、エッフェル塔に登ってみる気になったものの、長蛇の列で、上まで上ってまた下りるまでの間に、一時間に一回、十分間ずつ光る電飾を四回も見てしまった。たくさん寝たにしては、ものすごく疲れたパリの三日目でした。
友部正人
11月8日(土) パリ4日目
早く起きてセーヌ川沿いを、マラソンから1週間ぶりに走りました。パリは夜が明けるのも人が目覚めるのも遅く、ほんの2、3人とすれ違っただけ。パリは走る人が少ないな、と思ったら、昼間のリュクサンブルグ公園でおおぜい見ました。のんびりすわって本などを読んでいる人たちのすきまをぬって走る様子はなんだかとても変です。
今朝もホテルのそばで青空市が開かれていました。肉屋のガラスケースに死んだウサギがそのまま入ってたのにはちょっと驚き。いのししもそのままぶら下げてあります。このあたりには小さなホテルがいっぱいあって、あちこち泊まってみたくなります。だいたいダブルベッドで100ユーロ。シャワー(ドゥーシュ)かお風呂がついてます。
リュクサンブルグ公園から、ユミの提案でモンパルナスの郵便博物館に行きました。5階もある展示会場にはぼくたちの他に2人だけ。切手が使われだしたのは1850年ごろ。昔はどんな手紙でも、郵便屋さんは命がけで届けてくれたのですね。
モンパルナス墓地のセルジュ・ゲンズブールのお墓を見てから、今度はポンピドーセンターにジャン・コクトーの展覧会を見にいきました。ジャン・コクトーはとてもナルシストでした。ポンピドーもオルセーもルーブルも、美術館は芸術の墓地です。たくさんの芸術家たちが残したものは、石油のようにパリをうるおしています。パリは枯れることのない芸術の油田をかかえています。
マチルダがいうには、中国人の売春婦がパリで急増しているそうです。アメリカに代わりいつか人類を支配するのは中国人ではないかとユミはいいます。オセロのこまが最後の一手で、全部中国人になる日が近づきつつあるのかもしれません。そんなことをユミと話しながら、サン・ミッシェルで中華料理をたべました。世界中どこにでもある中華料理、日本人は大助かりです。
友部正人
11月9日(日) ポワティエ
モンパルナス駅で8時45分にマチルダやジェフと待ち合わせ。9時20分のTGVに乗るのです。メトロの改札口へ行く途中で切符の検札(コントロール)に合い、一週間フリー切符に写真ではなくマチルダが描いた似顔絵を貼っているのが見つかって、20ユーロずつの罰金をとられました。今日で期限切れだったというのに、運が悪かった。そのことをマチルダは気にして、罰金の分を返してくれました。
11月19日の福岡のコンサートの主催者、田中くん夫妻もちょうど仕事でパリに来ていて、モンパルナス駅でぼくたちの出発を見送ってくれました。今日、飛行機で福岡に帰るそうです。
1時間半ぐらいでポワティエに着きました。観光案内所で、今日のパスカルズのコンサートのことが第一面に載った地方紙を見せてくれました。まだパスカルズを聞いたことのないマチルダまで興奮していました。ポワティエの町は丘の上にあって、駅からてくてく坂道を登っていかなくてはなりません。ポワティエは11世紀に建てられた教会がいくつもある古い町です。町がわざわざ丘の上にあるのは、防衛のためだったのでしょう。
パスカルズがコンサートをする劇場は、中心地の広場の前にありました。入り口にポスターが貼ってあります。料金は一番高い席が17ユーロ。ホテルにチェックインして、4人で町を歩きます。日曜日はあまり営業してる店はありません。ビュッフェ形式のレストラン入りました。食べ放題で一人10ユーロぐらい。赤ワインも頼みました。
11世紀に建てられたロマネスク様式の教会を見て、それから劇場に行ってみたらパスカルズがリハーサルしていました。1時間前にここに着いたばかりだそうです。ロケットマツがアンコールでぼくに出てほしいと言っています。「こわれてしまった一日」をパスカルズと一緒にやることになりました。思わぬ事態にバタバタしてしまい、はるばる日本から持ってきたDATで、パスカルズのコンサートを録音するのを忘れてしまいました。
コンサートは午後5時15分ごろはじまりました。800人入る劇場の1階は満席です。すごい。石川くんはかつらをかぶり、エプロンを着ています。石川くんが何かをするたびに、客席の子供たちが喜びます。誰一人演奏中に席を立つ人もなく、パスカルズの演奏に聞き入っています。早いテンポの曲には今にも立ち上がらんばかりの反応です。ブライアン・イーノと武満徹の2曲が新鮮に聞こえました。知久くんとあかねさんのボーカルもよかった。アンコールで、ぼくはギターを持たずに「こわれてしまった一日」を歌いました。声もよく出たし、ポワティエの人たちの反応もとてもよかった。うれしかったです。
ぼくとユミが日本に帰って来ている今も、パスカルズはまだフランスをツアーしています。フランスはアメリカとはちがい、アジアの文化にも強い関心を持っています。だからパスカルズも大歓迎されていました。本当に、想像していた以上でした。
友部正人
11月10日(月) パリ最後の日
ポワティエからパリに戻ると、マチルダは職場の学校へ、ジェフは家に戻り、ぼくとユミはマチルダのアパートに荷物を置いて、すぐ近くのペール・ラシェール墓地へ行きました。
最初にマリア・カラスのお墓を見つけようとしたのですが見つかりません。通りがかりの人たちもまきこんで、地図に記された区画の中を探しました。その中の誰かが、マリア・カラスのお墓はもうないということを発見して教えてくれました。灰になって海にまかれたそうです。「ああ、なんと美しい」、くたくたになりながらもそう思いました。たったそれだけでぼくもユミもつかれきってしまい、エディット・ピアフとモディリアニのお墓を見て、墓地を後にしました。通りがかりにジム・モリソンのお墓も見ましたが、想像とは違ってとても地味でした。
セーヌ川のほとりにあるシェイクスピア書店に行きました。何ヶ月か前の朝日新聞にここのことが載っていました。昔は旅人を泊めてくれたりもしたそうです。今はもうそんなことはないとマチルダは言っていました。シェイクスピア書店は英語の古本と新刊が中心の書店です。レジの女性もそのまわりにいる若者たちも英語を話しています。何もアメリカの本をわざわざパリでユーロで買わなくてもいいものを、やはり何か買いたくなって、グリール・マーカスのボブ・ディラン本「ベイスメントテープ」を買いました。アレン・ギンズバーグと彼の父親との往復書簡集は今度ニューヨークで探すことにしました。
帰国の前日はどこにいてもたいしたことはできないものです。明日の朝ニューヨークに戻るので、今夜はマチルダの作った夕食をご馳走になり、そのまま泊めてもらうことになりました。ジェフがデジタルカメラで撮ったポワティエの写真をコンピューターのスクリーンで見ながら、みんなでパスカルズの話をしました。
友部正人
11月13日(木) 飛行機の中
朝JFKエアポートでシバに会いました。偶然同じ便で日本に戻るのです。ぼくの隣の席には、立川に長い間住んでいるという黒人のカップルがすわっていました。あまりにもはずかしそうに日本語を話すので、はじめは日本語だとわかりませんでした。おそらくぼくの英語も
同じようなのでしょう。
ジョニー・デップ主演の映画、「パイレーツ・オブ・カリビアン」を見ました。かっこわるい海賊ぶりがとてもよかった。ユミはその次の「Scorched」という映画を気に入っていました。もう一本は「リーガリー・ブロンド」でした。飛行機の長い旅の間に一冊ぐらい本を読めそうなのですが、そうやって映画を見たり、そのまま眠ったりして、一冊の本を読みきったことはまだありません。
友部正人
11月19日(水) 博多能楽殿コンサート
武川くんとぼくとユミの3人で福岡へ。住吉神社の能楽殿でライブです。能楽殿の舞台の上は白足袋でしか上がれません。ぼくと武川くんは用意してもらった白足袋をはき、他の人たちは五本指ソックスで働いていました。
主催はポカラ。福岡で古着屋を営む田中くんカップルとその仲間の若い人たちの集まりです。コンサートを主催するのは初めてだったのですが、市営バスの中にも広告を載せたりして、雨降りなのに130人ぐらいのお客さんが来てくれました。能楽殿は残響音が短く、PAの人もとてもいい会場だと言っていました。やりがいのある舞台だと演奏も自然によくなります。それに楽しみにしていてくれた人たちも多かったので、ぼくの気分もいつのまにか高揚していました。武川くんと二人でたっぷり2時間演奏しました。
今日のコンサートにはぼくの描いたイラストの入った日本てぬぐいがおまけについていました。コンサートが終って出てきた人たちは、きっとみんな温泉から出てきたように見えたでしょう。ぼくもさっそくその夜に使ってみました。初めててぬぐいファンになりました。
友部正人
11月20日(木) 釜山
さて、昨夜のコンサートの後の打ち上げの最中、今にも日付が変わるというとき、同席していた大津くんは打ち上げ会場から外に飛び出して行きました。ぼくはそのことにも気づかないで、他の人と話をしていたのですが、はっと気がつくと目の前のテーブルの上にろうそくを立てたケーキがのっているではありませんか。そうです、うっかりしてました。ユミの誕生日だったのです。日付はすでに20日に変わり、店のマスターがカリプソ調のバースディソングで盛り上げます。夜中にケーキ屋を探しに行く大津くんもえらいけど、そんな時間まで開けていてくれたケーキ屋さんもえらい。感動的な瞬間でした。
そんなこんなで夜更かししたのに、ぼくとユミと武川くんは、朝8時50分にはもう国際フェリーターミナルにいました。JRのジェットフォイール、ビートル号に乗って釜山に行くのです。ちょうど3人だったので、6枚つづりの回数券を買いました。釜山までは約3時間、途中寄った対馬は、博多より釜山に近かった。
釜山は雨、予約してあったホテルは丘の上で、どこに行くにも遠いのが難でした。でも市場で念願のお刺身を食べ、夜の繁華街を歩き、街もだいぶ覚えました。市場のおばさんはぼくの親戚のおばさんそっくりだったし、日本と韓国の近さを乗り物と街と人で感じた日でした。
友部正人
11月25日(火) 旅の記憶
九州ツアーを終えて横浜に戻ってきました。今回はニューヨークから戻ってそのまま福岡に行き、ついでに釜山にまで行って疲れたのか、戻ったとたん風邪をひいたようです。ぼくの想像の中では全く問題のないスケジュールだったのですが。
釜山から福岡に戻った翌日は北九州市の黒崎にあるアンディというライブハウスでソロのライブがあったのですが、その前に福岡の大津くんに車を運転してもらって、ぼくとユミと3人で志賀島に行きました。波打ち際で石拾いをしたり、島の食堂でお刺身を食べたりの短いドライブでした。石拾いをしていたら、道路を博多から歩いて来た中学生の一団が旗を立てて通りかかり、まるで古い映画を見ているような錯覚がしました。
ユミをポカラのメンバーが空港まで送ってくれて、ぼくはそのまま北九州へ。アンディでライブをするのは2回目。去年と場所が少し変わったそうです。主催は折尾の丸山さん。アンディはソロでもバンドでもできる、設備の整ったライブハウスです。ブルースやソウルミュージックが大好きなご夫婦がオーナーです。そのオーナー夫妻のお気に入りだという若いブルースシンガー、シェリーという女性が最初に歌いました。小柄なのに迫力がありました。ぼくは久しぶりの弾き語りで、ギターを弾いて歌うという基本的なことが新鮮に感じられました。
23日(日)は長崎の御飯という和食屋でライブでした。今年で9年目になる御飯のオープニングでライブをしたのはぼくでした。それから2年に1回の割合でライブをしています。今まではライブの前に食事もできたのですが、今年はシンプルに飲み物も食べ物も持ち込み制のライブでした。いつもはきちんとした和食が出たので、何度も来ている人は、そんなはじめての試みにびっくりしていました。持ち込み制だと聞いて、走って外に食べ物やお酒を買いに行っていました。御飯は和室のお店で、歌う人も聞く人も畳の上です。立つとかもいに頭がつきそうです。日本人は座って生活していたので、天井は高くなくてもよかったのです。畳が大好きなぼくは、たくさん歌ってしまい、気がついたら2時間半を越えていました。
24日は佐賀県基山町のテラコヤキッドという私設の学童保育所のがらーんとした倉庫でライブをしました。毎年続けていて、今年で3回目です。主催は安平さん。テラコヤキッドの高田さんと寺崎さんは、子供たちを解放的にするという興味深い仕事をしています。開放的に遊ぶためには、少々の危険もいとわないという主義です。寺崎さんは子供たちとの戦闘中に肋骨を折ったこともあるそうです。海外の子供たちとの交流もしています。過剰な保護の囲いから子供たちを連れ出して、自分に責任を持てる子供たちを育てようとしているのかもしれません。
安平さん夫婦に車で福岡空港まで送ってもらうときに、めずらしく車酔いをしたので変だな、と思っていたら、風邪だったことがわかりました。ニューヨーク、フランス、九州、釜山という長い旅がついにぼくの体に納まりきらなくなって、それが今日風邪になったのかなと思いました。
友部正人
11月27日(木) 三宅伸治
吉祥寺のスターパインズカフェで「言葉の森」の5回目。今日のゲストは三宅伸治くんでした。
三宅くんがゲストだと、「言葉の森」というより、「ギターと笑いの森」になってしまいます。彼の明るいパワーはぼくにはいつも刺激的で、一緒にやりながらも、一人のときもこれぐらいやれたらなあ、と思うのです。音楽の楽しさの秘訣をどこかに持っているようです。
春の北海道ツアーのときやろうとしていた「ホワッツ・ゴーイング・オン」を、今回やっとやることができました。三宅くんが書いてくれたコード譜をなくさなかったのは、この曲に対するぼくの執念です。彼は耳で聞いた音楽からさらさらとコードを拾えるようです。三宅君の短いソロの時間の中で、詩の朗読も披露してくれました。ぼくは今回やらなかったのに。三宅くんとのときしかできない「グッドモーニング・ブルース」も、今年は一緒にやるチャンスがたくさんありました。二人でやる曲が10曲以上もある、中身の濃いライブになりました。
三宅くん、来年は南の方にでも二人で歌いにでかけませんか。
友部正人
11月29日(日) 山雲窯コンサート
こんなに朝早い新幹線に乗るのは初めてでした。新横浜発7時20分。名古屋から中央線に乗り換えて瑞浪で下車。駅に主催の大泉讃くんが迎えに来てくれました。古くからの知り合いの讃くんは陶芸家で、今日は1時半から彼の登り窯の前でコンサートをするのです。あいにくの雨ですが、「これくらいなら大丈夫」ということでした。
讃くんの家は山の中腹にあり、住居、仕事場、茶室など、敷地の中には古い建物がいくつも建っています。名古屋や高山から、自然食のお店や児童書のお店などが、もう出店としてやってきていました。お腹のすいていたぼくは、さっそくひじきのサンドイッチを食べました。
しばらく休んでいて、と通されたのは、讃くんが自分で山の斜面を掘って作ったドーム型の茶室。壁は漆喰かコンクリートで、電気を消すと全くの暗闇になり、外の音もあまり聞こえません。雨なのにコンサートには100人近い人が来てくれました。中には登り窯の上に乗って聞いている人もいて、讃くんは崩れたら大変、とちょっと心配したそうです。
終ってから1時間ほど、讃くんの家族と茶室でお茶をごちそうになりました。讃くんの奥さんはお茶の先生です。作法を知らないぼくにはものめずらしいことばかり。カマクラみたいな、エスキモーの氷の家みたいな茶室の中では、ごろ寝が気持ちよさそうです。
友部正人
12月5日(金) 高松と高知
高松の楽器店Hit’sでライブでした。今年も高知から高須賀満さんが歌いに来てくれました。「出会う場所」という新しいアルバムが完成したばかりです。
今日は「大阪へやってきた」がやりたくなってやりました。のっていたのでしょう。「ふあ先生」もやりました。こういう語りの歌は、毎回調子を変えられるので便利です。こういう歌はまだまだふやしていってもいいと思います。ライブの後打ち上げをしていたら、リクオから電話がかかってきました。リクオも今夜、高松でライブをしていたそうです。しきりに「奇遇ですね」と言っていました。時間も遅かったので明日会う約束をして、ホテルに戻りました。
12月6日(土)
美術館で船越桂の展覧会をやっていたので見に行きました。ポーッとした顔の上半身だけの人物像たちが、広々とした場所に置かれている様は見ものでした。それを見ただけで新鮮な満足感を味わいました。ただ、タイトルに必ずなんらかの形容詞がついているのはちょっと気になりました。「・・・・の山」という具合。こういうのはぼくの歌の題にも多いので、ちょっと考えてしまいました。本当はイサム・ノグチのアトリエを見学したかったのですが、一週間前に予約しなくてはならなかったらしく、あきらめました。
リクオやHit’sの佐藤さんたちとうどんを食べて、高須賀さんの車で高知に向かいました。
高知は歌小屋の二階というライブハウスでライブです。歌手の池正人さんがPAをしてくれたのですが、音がとても良かった。やはり歌い手だからかな、と思いました。一部は矢野じゅんこさん、二部は高須賀さんとぼくというライブです。今日ものっていたけど、「大阪へやってきた」はやりませんでした。歌小屋は五十人も入ればいっぱいのライブハウスです。椅子の横のアンケートを書くための鉛筆が入ったペン立てがついていて、多機能なお店です。主催の人たちが用意してくれた手料理で打ち上げをしました。そこにいた全員が立って一人一人コンサートの感想を述べてくれました。
友部正人
12月7日(日)神戸ロックストリート
神戸スタークラブライブ。これはスタークラブ関連ライブハウスが3軒集合して実現した『神戸東ロックストリート』というイベントの一環でした。ぼくはイベントの最後に、マーガレットズロースにバックをしてもらって出ました。3軒のライブハウスのお客さんがここに集合したので、当然のごとく満員でした。スタークラブはJRと阪急電車の高架下にあるライブハウスで、入り口は全く目立ちません。おそらく、まん前に立っても見つからないでしょう。高架下なので、電車が通るたびに言葉にならないほどの地響きが伝わってきます。とてもソロではできないところです、と前からお店の方から聞いていました。でも、すぐ隣では普通に生活している人たちがいてちょっとびっくりです。
この企画で年寄りはぼくとなぎら健壱だけでした。自分で話すのは得意だけど、人の話を聞くのはへたななぎらです。何回も同じことをぼくに質問します。質問しているのに聞いていない、きっと気持ちが忙しすぎるのでしょう。でも彼の目はとてもやさしい。愛情深い。そんな自分自身を保つために、忙しいふりをしているのかもしれません。久しぶりに会えてぼくはうれしかった。
打ち上げの合間にホテルの近くで光玄に会い、10月に亡くなったホン・ヨンウンの話を聞きました。ホンくんの頭みたいな、あのつるつるの喋り方をまた聞きたいなあ。
友部正人
12月8日(月) 神戸ぶらぶら
昨日は結局朝3時までなぎらやマーガレットズロースといました。お開きの前にぼくはなぎらのギターを借りて「ドントシンクトゥワイス」を歌いました。
お昼前にマーガレットズロースからホテルに電話があって、三宮のHMVの前で待ち合わせ。元町あたりのぎょうざ専門店に入って、ぎょうざを食べながらビールを飲みました。平日の昼間のビールってうまいね、なんて言いながら。マーガレットズロースの3人は今20代真ん中あたりなのですが、ぼくもその年齢のころは、ライブの翌日など、そんな風に知らない街をぶらぶらするのがとても好きでした。そのころのぼくのとって、街は歌そのものでしたから。
そんなことを思い出したりする楽しい散歩でした。南京町をぶらぶら買い食いして、ひなびた大人っぽいコーヒー屋で一服して、夕方彼らは大阪へ、ぼくとユミは横浜へと向かいました。
友部正人
12月9日(火) パスカルズ横浜ライブ
パスカルズが横浜サムズアップでフランスからの凱旋ライブ。これはおおげさな言い回しではなく、日本での彼らの扱われ方からは想像もできないくらい、フランスでは大々的に取り上げられ、コンサートに熱狂しているのです。2週間以上のフランス・コンサートツアーから戻って間もない彼らですが、サービス精神たっぷりの元気なステージでした。行く前よりも演奏のリズムが激しくなってきているのは、共同生活と連日のパフォーマンスのせいかも。
ぼくとユミはパリから南西にTGVで2時間ほどのポワティエという町で彼らを聞いたのですが、お年寄りから子供まで、日本から来るバンドを楽しみにしていたみたいでした。そのときのアンコールで彼らと一緒に歌った「こわれてしまった一日」を、今夜もまた横浜でアンコールでやりました。彼らと一緒にやるときの適度な高揚感と乾いた速度がぼくにはたまりません。抽象的なぼくの歌詞が、彼らの抽象度の高い音楽にぴったりとはまるのです。制約のない広がりの中に流れはじめます。そんな歌の時間をまたいつかゆっくりとパスカルズと持ちたいものです。
友部正人
12月12日(金) ムーンライダーズ
渋谷のクアトロへ。ぼくにとってムーンライダーズのライブを聞くのは80年代の「青空百景」渋公ライブ以来。でも2年前に京都でイベントで一緒だったときは聞きましたけど。700人以上入ったというぎゅうぎゅうのクアトロ、親切にも席を用意していてくれて座って聞きました。
最初は前衛的な感じのインストで始まったライダーズですが、途中から歌物に。だんだん古い歌もやりだして、ムーンライダーズを時間旅行した感じ。それにしてもおもしろい人たちでした。日本にはムーンライダーズ族という民族がいて、ぼくは彼らの民族音楽を聞いているような錯覚を覚えました。電気的な音の音楽も、歌詞が情景をはっきりと伝える文学的な音楽も、みんなムーンライダーズ族の民族音楽でした。縁側でお茶を飲みながら、昔話でもするようにロックする。そのロックが全然衰えていなくて、かえってシャープになっている感じがしました。ロックは年取って若くなります。若いときみんな年寄りだったように。
友部正人
12月18日(木)〜19日(金)レコーディング
鎌倉芸術館の小ホールを借りて、レコーディングをしました。メンバーはロケット・マツ、武川雅寛、横澤龍太郎の3人、録音エンジニアは「休みの日」に引き続き、吉野金次さんです。鎌倉芸術館の小ホールは今年の1月12日にぼくの30周年記念コンサートをしたところ。メンバーもそのときのメンバーなので久しぶりに戻ってきたという感じ。ただ客席に誰もいないと、会場がずいぶん狭く見えます。広いステージの真ん中に集まって、向かい合うようにして演奏しました。モニターもヘッドフォンも使わず、自分の耳だけが頼りの、最も自然な録音方法です。ピアノやドラムスは自分の出す音が大きいので、最初はぼくの声が聞こえないと言っていたのですが、いつのまにかなれてしまっていたようです。聞こえないときはぼくの口元を見ていたと龍太郎くんは言っていました。
2日間で10曲を録る予定だったので、ホールを朝から夜の10時まで借りました。2日目も朝が早いので、龍太郎くんとマツには大船のホテルに泊まってもらいました。録音組も前日からホテル泊まりです。武川くんは大船に住んでいるのでそんな準備は必要ありませんでした。もっとも、彼はどんなに遠くても集合時間の前に来ている人です。2日目の夕方6時には大体の録音が終わり、残り時間でコーラスを入れました。それ以外のダビングはなし、つまり歌と演奏を同時に一発録りという実にシンプルなやり方です。ベースの代わりに龍太郎くんのバスドラがあるだけという編成も変わっています。今回マツはスタンウェイのピアノを弾いたのですが、吉野さんのアイデアでわざと調律をしませんでした。日本人の調律師は正確すぎてつまらないというのが理由です。そんなことを言うエンジニアに会ったことがないのでびっくりしました。
2日間の録音が終って町へ出てみれば、忘年会シーズンでどこのお店も満員でした。たまたま見つけた中華料理屋がすいていたので、そこでお疲れさんをしました。合宿みたいな2日間でした。今回の録音に間に合わなかった曲を、近いうちにまた録音できればと思っています。
友部正人
12月25日(木)東京ボブディラン
大晦日の横浜サムズアップのイベントで、東京ボブディランと一緒にぼくもボブディランの歌を歌うことになりました。いろんなバンドがアメリカの歌をカバーするイベントだそうです。
今日はそのリハーサルをしてきました。半年前にはじめて彼の生演奏を聞いたのもサムズアップでした。歌うとボブディランに似てしまうのは、彼には自然なことのようでした。今日リハーサルをしていても、ボブディランに似せて歌うのは大変なことではなさそうでした。軽くあの重々しい声が出てくるのです。
リハーサルの後、池袋で食事をしながらお酒を飲みました。当然のように話題はボブディランのこと。日本でボブディランのツアーの追っかけをしていて、大阪の町の中でばったりと本人に会ってしまったときの話。アメリカのニューオーリンズやカリフォルニアをボブディランのツアーを追いかけて旅した話。ぼくより一回りくらいも若い彼がどうしてそんなにボブディランにはまったのか不思議な気がします。今度会ったら「ハーイ!ボビー」と呼んでみようかな。
友部正人
2003年12月27日(土) KuuKuu閉店コンサート
吉祥寺のKuuKuuのラスト・コンサート。出演は高田渡、中川五郎、中山ラビ、渡辺勝、佐藤ガンさん、友部正人。他にもピアノのきんちゃんやバイオリンのHONJI、武川くんなど大勢でした。
KuuKuuの南さんから「年内で閉店することにしたよ」と電話があったのは10月ごろ。その少し前に吉祥寺のタワーレコードでのインストアライブの後にみんなで御飯を食べに行ったばかりだったのでびっくり。普段は行かなくても、KuuKuuは永遠に吉祥寺にあるものだと思っていました。せっかく吉祥寺でぼくのライブがあっても、いつもKuuKuuの閉店時間には間に合わなくて、ちょっぴり残念に思っていました。でも、そのうち行くチャンスもあるだろうと。その最後のチャンスが閉店コンサートだなんて。でも、一度やめてしまうことで先が続くこともある。KuuKuuの閉店パーティは、新しいお店のオープニングのようにも見えました。閉店のニュースが流れると、お客さんが怒涛のように押し寄せたそうです。久しぶりに来る人たちと会うのにとても忙しいと南さんからファックスがきました。
KuuKuuの料理は、いろんな国のエスニック料理を新しくアレンジした創作料理でした。開店した当時はめずらしかったそういうお店も、今では日本全国で見られます。そっくりの名前の店も多いです。創作料理ブームのはじまりはKuuKuuだったのではないでしょうか。
KuuKuuの開店がいつだったのか覚えていませんが、1992年のクリスマスにぼくはコンサートをしていて、それがはじめてのKuuKuuのコンサートだったようです。南さんがアクリル板に描いたそのときの看板、まだ我が家の壁にかかっています。
今夜のコンサートには、ぼくの古くからの知り合いもたくさん聞きに来ていました。みんな
KuuKuuのファンや南さんの知り合いだったわけで、KuuKuuを中心にしたつながりの輪は予想以上でした。もしかしたら、とても大切な場をぼくらは失ったのかもしれません。
KuuKuuが閉店するおかげで、会いたいと思っていた人たちに一度に会えました。おかげで遅くまで飲みすぎて、今日はお昼ごろまで起きられませんでした。
友部正人